32.
まるで私が存在しないかのように伯爵夫人はレインを見つめる。
それはカーヴェルを見つめるマレーナの視線を彷彿とさせた。
彼女が美形だからと言って流石に見過ぎだろう。
大体レインに見惚れているような事態では無い筈だ。
「うっ、痛い、骨が折れているかも……もう嫌ぁ……」
先程まで伯爵夫人に折檻を受けていたメイドがへたり込んだまますすり泣いている。
彼女がさすっている手首は赤黒い痣が出来ていて痛々しい有様だった。
手の甲も同じように色が変わり、こちらには血が滲んでいる。
折れはしていないだろう。きっとそのように計算して伯爵夫人は暴力を振るっている。
それだけ暴力を振るい慣れているのだ。
見ていると自分の手まで痛くなってくる。
(……そう言えば、私も)
ふとそう思った瞬間、謎のビジョンが急に脳を占める。
血の滲んだ小さな子供の手。泣きじゃくる幼い声。
そしてそれを抱き寄せ慰める美しい女性。
『もう大丈夫。エリカだけはお母さんが守るから……』
メイド服の彼女は悲し気に微笑み言う。
怪我で熱を持った子供の手を包み込むその手は死人のように冷たかった。
次の瞬間、寝間着のまま目を閉じる彼女の姿が浮かび上がる。
病気でやつれたその顔は、もう私に微笑みかけない……。
「奥様!」
叫び声と共に体が支えられる。
気が付くとカーヴェルの焦った顔が至近距離にあった。
「……カーヴェル?」
「大丈夫ですか?!」
そう問われ、自分の現状を確認する。
どうやら私は後ろに倒れ込みそうになったらしい。
体が斜めになってカーヴェルの体を見上げるようになっている。
しかしそうなるまでの記憶が全く無かった。
「……カーヴェル、貴方からは私がどうなったように見えた?」
「あちらのメイドを凝視した後、急に意識を失ったように見えました」
「そう……」
多分メイドの怪我とすすり泣きを見て、エリカがこの屋敷で体験した記憶が突然フラッシュバックしたのだ。
体に残った記憶というものだろうか。
折檻され泣くメイドを見て幼いエリカが折檻された記憶が連動で想起され、それが最終的にエリカの母の死亡まで行きついた。
結果、心が負荷に耐え切れずこの体は気を失いかけたという訳だ。
原作でケビンに襲われかけた時も気絶したし、心因性のショックに対し弱い体なのかもしれない。
「大丈夫かい?」
「ええ、もう大丈夫」
支えるカーヴェルの手から離れレインに微笑みかける。彼女はそれでも心配そうだった。
気持ちはわかる。目の前で突然気を失われたら医者として心配にもなるだろう。
「昔私も同じように酷い折檻を受けたのを思い出しただけだから」
私は伯爵夫人を冷たく見つめる。しかし彼女はそんな私に対し一切悪びれなかった。
「……そんなことあったかしら? まあ私は躾に厳しいからあったかもしれないわね」
だからどうしたとでも言いたげに伯爵夫人は笑う。シンプルに憎たらしかった。
子供時代のエリカの記憶を突然殴るようにぶつけられた苛立ちもあるかもしれない。
あれはきっと彼女が忘れたままにしておきたかったことだ。何故かはわからないけれど。
「躾に厳しい癖に何故実の娘は盛りのついた野良猫のように暴れ放題にしているの?」
「何ですって?!」
怒りを露にする伯爵夫人を私は睨みつける。
彼女に怒る権利なんて無いのだ。
伯爵夫人として、そしてローズの母親として問題児な娘を監視するという義務を怠っているのだから。
「ローズは色恋に狂ってるだけじゃない、今も王都でアベニウス公爵家を侮辱して回っているのよ」
私は今日この屋敷に来た用件をやっと告げる。
そして改めてこの場に伯爵夫人しかオルソン家の権力者が居ないことに気付いた。
ローズは恐らくまだ王都にある伯爵家のタウンハウスに居るだろう。
昔から半分私物化していた。
だが伯爵自身は特定の時期しかこの屋敷を離れない筈だ。
そして彼は貴族にしては珍しく早起きでよく早朝の散歩などをしていた。
だから突然の来客でも姿を現さないなんて無い。
「オルソン伯爵がこの屋敷にいないのだって、娘が王都で騒動を起こしたからでしょうね」
「……何よそれ、あの娘が何をしたって言うの?」
私が告げると伯爵夫人が怒りを消さないまま戸惑った顔をする。
もしかして何も夫から知らされて無いのだろうか。
下手をすれば伯爵家自体が没落しかねないのに。
(……どの家の男たちも本当に)
急に疲れを覚え私は溜息を吐く。
途端心配そうな顔で見て来るカーヴェルに大丈夫だと微笑んだ。




