第8話 沈む町
翌朝。
籠月町の空は低く垂れ込め、雨が降るでもなく湿り気だけを残していた。
由紀は崩れた石灯籠の欠片を裏庭に並べ、母には「昨夜、猫が倒した」とだけ告げた。
母は咳をしながらも、疑う様子はなかったが──その瞳はわずかに曇っていた。
灯籠は、父が生前に据えたものだったからだ。
道具店に戻ると、師匠・仁が地図を睨んでいた。
赤い印はすでに四つ。町を囲む円は閉じつつある。
「……やはり中心に向かっているな」
「中心って、どこになる?」
由紀の問いに、仁は地図のど真ん中を指差した。
「ここだ。旧市庁舎跡地。戦時中の空襲で焼け、そのまま放置された広場だ」
旧市庁舎──そこは町の古い記録が眠る場所でもある。
由紀は子どもの頃、一度だけ忍び込んだことがあった。
崩れた階段と黒く煤けた壁、そして、地面から染み出すような冷気を覚えている。
「もしここに大門が開いたら?」
「町全体が引き込まれる。時間も、人も、記憶も、丸ごとだ」
仁の言葉は淡々としていたが、その声は僅かに震えていた。
その時、戸口が叩かれた。
入ってきたのは影鎖の男だった。
外套は泥で濡れ、肩で息をしている。
「……予定が狂った。門の芽吹きが加速している」
「どこだ?」
「旧市庁舎──あと一日だ」
由紀は息を呑んだ。
「一日……? 三日持つはずじゃ……」
「昨夜、お前の家を狙った影は、大門の芽を肥やす“根”だった。切ったが、逆に目覚めを早めた」
仁が机を叩く。
「一日で大門を封じるのは無茶だ」
影鎖の男は由紀を見据える。
「無茶をしなければ、町は消える。……鎖を起こせ」
鎖を起こす──それは、自らの命と時間、そして魂の一部を代償にする行為だ。
由紀は息を詰めた。
「……代償は、どれくらいだ」
「人としての輪郭が、一つ崩れる。名前を呼ばれても、自分だとすぐに思い出せなくなるかもしれない」
沈黙が落ちた。
外では、町の空気が重く沈み始めている。
旧市庁舎の方角から、微かに鐘の音が響いた。
それは、町の終わりを告げる合図のように聞こえた。