第5話 三日の猶予
三日──。
影鎖の男が残したその言葉は、由紀の頭から離れなかった。
塔で切り落とした根の破片は、今も神谷道具店の奥の作業台に置かれている。
乾いているはずなのに、手を近づけると微かに湿り気を感じた。
根の表面には、細かい刻印が連なっている。それは由紀の鎖の紋様と似ていたが、ひとつひとつが微妙に歪んでいた。
師匠・仁は朝から黙々と修理の仕事をこなしていた。
ゼンマイ時計の蓋を外し、歯車を磨き、油を差す。
その指先の動きは落ち着いているが、目の奥には警戒の色が見え隠れしている。
「師匠、本当に三日後に門が開くのか」
「影鎖の言葉は軽くない。あいつらは数字で動く」
「数字?」
「門が開く周期、芽吹きの速度、閉じるまでに必要な代償……全部、記録として残している。俺たちみたいに勘や感覚じゃない」
仁は歯車を戻しながら続けた。
「三日後に開く門がどこなのかは分からん。だが、芽吹きはもう始まっているはずだ」
「見つける方法は?」
「匂いだ。門が近い場所は、空気の粒子が変わる。呼吸の深さが、ひとつだけ狂う」
由紀は考え込んだ。
昨日の川上もそうだった。塔の中に入った瞬間、肺が重くなり、空気が水のように抵抗を持った。
だが、この町全体でその変化を探すのは容易ではない。
昼過ぎ、商店街の向こうから少年が駆けてきた。
肩で息をしながら、由紀に叫ぶ。
「神谷さん! 町外れの製粉所で、変な音がしてる!」
「変な音?」
「粉を挽く機械が止まってるのに、夜通し回ってるみたいな……ゴウン、ゴウンって」
仁と目を合わせ、無言で頷く。
「案内しろ」
由紀は鎖を肩に掛け、少年の後を追った。
製粉所は町外れの河沿いにあった。
木造の壁は剥げ、窓ガラスは粉で白く曇っている。
近づくにつれ、確かに聞こえてきた──低く、重い回転音。
だが、それは歯車の音ではなかった。
もっと深く、地面の底から響いてくる脈動に近い。
中に足を踏み入れると、空気が粉の匂いに混じって甘く湿っていた。
床の中央には、巨大な挽き臼が据えられている。
臼の表面にはびっしりと刻印が浮かび上がり、赤い光が脈打っていた。
──芽だ。しかも、川上よりも大きい。
「師匠……これ、もう芽じゃない」
「ああ、半分は開いてる」
その瞬間、臼の側面が裂け、中から何かが這い出してきた。
粉に塗れた長い腕。
指は五本だが、関節の位置が人間と違う。
一本ごとに逆向きにも曲がるのだ。
仁が低く叫ぶ。「由紀、締めろ!」
鎖を投げる。節が臼の刻印に絡まり、赤い光が鈍くなる。
だが腕は止まらない。鎖を巻き取ると、今度は別の方向からもう一本の腕が現れた。
背後で金属の音──影鎖の男がいた。
「下層は俺がやる。上を頼む」
由紀は頷き、臼の天面へ鎖を回した。
二本の鎖が臼を上下から縫い付ける。
粉が舞い、空気が白く霞む。
臼が最後の脈動を吐き出すと、腕は粉の中に崩れ落ちた。
影鎖の男は鎖を回収し、短く言った。
「……これで二日、延びた」
そう言い残し、粉煙の中に消えた。
静まり返った製粉所の中で、由紀は息を整える。
延びたのは三日ではなく、二日──。
つまり、次はもっと早く来るということだ。
胸の奥の空洞が、さらに広がっていくのを感じた。