第4話 川上の芽
午前四時。
夜の冷気はまだ町を包み、空はわずかに群青へと変わり始めたばかりだった。
由紀は鎖を肩に掛け、師匠・仁と共に川上へ向かう。
川沿いの道は湿った土の匂いが濃く、足を踏み出すたびに靴底がわずかに沈む。
遠くに、黒い影のような塔が見えてきた。
──鐘楼跡。
壁は半分崩れ、レンガは苔と蔦に覆われている。塔の最上部は失われ、空に向けて裂け目を晒していた。
近づくほど、耳に変な音が届く。
鐘の音ではない。
それは──呼吸だった。
湿った、重い息遣いが、塔の奥から漏れてくる。
「師匠、もう芽吹いてるな」
「ああ。まだ小さいが、油断するな」
仁は塔の周囲をゆっくりと回り、足元の土を踏みしめた。
由紀も周囲を確認する。
塔の影が、夜明け前にも関わらず、不自然に濃い。光の加減ではなく、影自体が重たく沈んでいるのだ。
鎖を手に取ると、節の刻印がうっすらと赤く光った。
それは門の近さを示す兆し。
息がひとつ深くなり、周囲の音が遠のいていく。
「逃げ道三本、見つけたか」
「塔の裏手の崩れた階段、川沿いの小道、教会跡の窓からの飛び降り」
「よし。芽は塔の中心だ。根を切れば、門は開かん」
二人は塔の入口をくぐった。
中は冷たく、空気が濃い。
床板の隙間から黒い根のようなものが伸び、壁を這い、天井へ消えていく。
その根は脈動し、赤い刻印に似た光を時折放っていた。
仁が低く呟く。「あれが芽だ。鎖で縫い付けて、動けなくしろ」
由紀は頷き、鎖を投げた。
鎖は根に絡みつき、節ごとに光を走らせる。
だが、次の瞬間、床下から別の音が響いた。
──金属の擦れる音。
目を凝らすと、塔の暗がりの奥から、もう一本の鎖が伸びてきていた。
影の鎖。
橋で出会ったあの男が、そこに立っていた。
「また会ったな」
影鎖の男は無表情のまま、根の別の部分を締め上げる。
「こっちは下の層を縫う。上は任せる」
言葉は簡潔だが、その動きは迷いがない。
由紀も言い返さず、根の上層を鎖で絡め取った。
二本の鎖が、同じリズムで締まる。
根は軋み、光を吐き出しながら崩れ落ちた。
最後に残った細い茎を、由紀が引き千切る。
その瞬間、塔全体の空気が軽くなり、外の鳥の声が戻ってきた。
影鎖の男は、崩れた根を見下ろし、短く告げた。
「……三日持たない」
そして、塔の奥の闇に消えていった。
仁はその背を見送り、低く呟く。
「三日後、また門が開く……か」
由紀は鎖を肩に巻き直し、塔の裂け目から夜明けの光を見上げた。
空は白み、町の屋根がゆっくりと色を取り戻していく。
──三日。わずか三日で、次が来る。
胸の奥の空洞が、再び膨らみ始めていた。