第3話 影鎖
夜更け。神谷道具店の二階で、由紀は机に向かっていた。
机の上には、さっきの橋での出来事を記した手帳が開かれている。
鉛筆の芯を削り、紙の上に文字を刻む。
輪の形、刻印の光、影の人物の鎖──思い出せる限り、細かく描写する。
影の鎖は、節の間にごく細い溝があった。その溝に流れる光は赤ではなく、どこか青黒い。
そして、その動きは微かに遅かった。由紀の鎖が呼吸のたびに膨らみ、縮むように動くのに対し、影の鎖は一定の速度で締まっていた。
それは、まるで生き物ではなく、機械の歯車のようだった。
机の端には、鹿の怪異から削られた「二日分」の石が置かれている。
それを手に取って重みを確かめる。
石は軽いのに、指にずしりと沈むような感覚がある。失われた時間の重さが、そこに閉じ込められているようだ。
階下から、師匠・仁の声が響いた。
「降りろ。来客だ」
由紀は手帳を閉じ、石をポケットに入れて階段を下りた。
店の入り口に立っていたのは、黒い外套を着た男だった。
背が高く、細身。顔は影に覆われている。
だが、その肩に掛かっているものを見て、由紀の呼吸が止まる。
──影の鎖。橋で見たそれと同じ節、同じ刻印の光。
男はゆっくりと頭を下げた。
「神谷仁殿、そして……新しい街守殿か」
声は深く、響きが金属のようだ。
仁が応える。「……何の用だ、影鎖の者」
影鎖──その名が由紀の耳に残った。
男は店の奥を見回し、ひとつ頷いた。
「先程の橋の件、助力させてもらった。あれは向こう側の『芽』だ。この町は芽吹きが早すぎる」
「芽吹き?」由紀が口を挟む。
男は視線を向けずに答えた。「門が開く前に、土壌を変えられているということだ。土の匂いが変われば、呼ばれるものも変わる」
仁はカウンターに手を置き、低く言った。
「お前たち影鎖の仕事は、芽を摘むことだったはずだ。なぜ今になって俺たちの縄張りに出てくる」
「摘みきれなくなったからだ」
男は静かに鎖を握りしめ、その節が低く鳴った。「門が一晩で三つ。芽が七つ。これでは持たない」
由紀は腕を組み、訊いた。
「お前は敵か、味方か」
「どちらでもない。私は仕事をするだけだ」
そう言って、男は外套の裾を翻し、戸口へ向かった。
去り際に一言だけ残す。
「……次は、川上だ」
戸が閉まると、店内は急に静まり返った。
仁が深く息を吐く。
「川上……あそこは、鐘楼跡がある」
「鐘楼?」
「戦前に焼けた教会の塔だ。鐘は溶け落ちたが、台座は残っている。あそこは“門”にとって、形が良すぎる」
仁は壁の地図を指差し、川上の位置を示す。
「明日の夜明け前に行くぞ。芽の段階なら、代償は少ない」
由紀は頷き、鎖を確かめた。
明日は失う時間を、できるだけ少なく済ませたい──そう思いながら、再び二階へ上がった。
窓の外には、夜の籠月町が静まり返っている。
だが、耳を澄ませば、どこかで水滴が落ちる音が続いていた。
──川上は、もう水を吸っている。