第19話 赤鐘の脈
広場に戻った由紀は、鐘楼の下で仁と影鎖が構えているのを見た。
空は夕焼けの色に近づき、その赤が鐘楼の石壁にゆっくりと滲み込んでいる。
赤い光は鐘の縁から脈を打ち、広場全体に広がっていた。
それは血の流れに似ているが、温度はない──冷たい血。
仁が短く言う。「赤が“内輪”を叩く前に止める」
影鎖は頷き、視線だけで由紀に合図を送った。
由紀は鎖の節を握り直し、鐘楼の階段へ駆け上がる。
赤い脈は階段の手すりや壁面にも染み、触れれば胸穴が熱く疼いた。
最上階の鐘室にたどり着くと、そこには白い影がいた。
港で見た、赤と灰を抱えていた影だ。
しかし今は、胸の光はすべて赤に染まり、鼓動を速めている。
──わたしは、名を持っていた。
──けれど、それを呼ぶ声が、もうない。
由紀は影と向き合い、声をかけた。
「名は、まだここにある。消えてはいない」
影は首を傾け、鎖を生やした腕を伸ばした。
その鎖の節は血潮のように赤く、脈を打っている。
「ならば、繋げてみせて」
赤い鎖が振るわれ、鐘の縁を叩いた。
低く重い音が広場に響き、赤い光が波紋のように広がる。
由紀はその波を裂くように節を走らせ、鐘の縁と赤い鎖の間に自分の鎖を挟み込んだ。
金属音が火花を散らし、赤と赤が混ざり合って黒みを帯びる。
仁と影鎖も鐘室に駆け上がり、三方から赤い鎖を囲んだ。
仁の鎖は赤の脈を締め、影鎖の鎖はその縁を切る。
由紀は中央で節を捻り、赤い光を鎖の結び目に引き込む。
影が小さく震え、胸の光が揺らいだ。
──やめて。消えるのは、こわい。
「消さない。ただ、戻す」
由紀はそう告げ、赤い光を胸穴の奥へ導く。
その動きは、自分の中にある冷たさと熱を繋ぐような感覚だった。
影の輪郭が次第に人の形に近づき、白い衣の裾が現れる。
顔はまだ見えないが、その立ち姿には確かに息遣いがあった。
最後の脈を縫い終えると、鐘の赤は完全に消えた。
広場の空も、夕焼けから夜の藍色へと戻っていく。
影は鐘楼の窓際まで下がり、由紀を見た。
──ありがとう。けれど、灰はまだ、歩いている。
そう言い残し、影は鐘楼から外へ出るように溶けて消えた。
由紀は胸の穴に手を当てた。熱も冷たさもなく、ただ空っぽだった。
仁が短く言う。「灰の鎖を探すぞ」
影鎖も頷く。「外輪はあと一つ。そこが終わりだ」
三人は鐘楼を降り、北へと歩き出した。
その背後で、誰もいないはずの鐘が、一度だけ小さく鳴った。