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第2話 欠落の二日

 朝の光は、紙の裏から滲むインクのように薄かった。

 神谷道具店の二階で目を覚ました由紀ゆきは、寝返りと同時に強い違和感に突き当たった。胸の奥が空洞になっている。息を吸っても、その空洞が埋まらない。


 机に置いた手帳を開く。昨夜のページの次、二枚──白紙。

 めくる指が止まる。白は、ただの空白ではない。そこに何かを書いて、破り取られた手触りが、紙の繊維のざらつきとして残っている。


「……二日分」


 階段を下りると、店内の空気がいつもより冷たかった。柱時計は六時を回り、振り子がゆっくり左右を往復している。

 戸を開けて、朝の空気を吸い込む。湿った土と、昨夜の雨の鉄の匂い。商店街はまだ眠っている。八百屋のシャッターの前に猫が丸まり、パン屋の煙突からは細い白い煙が立った。


 手拭いで戸口の硝子を磨いていると、背後から咳払いが聞こえた。

「おい」

 師匠の神谷仁じんが、いつもの古びたコートを肩に掛けて立っていた。目は赤い。眠っていないのだ。

「顔が悪い」

「鏡が割れるほどじゃない」

「そうじゃない。目の焦点が合っていない。二日、落ちたな」


 由紀は頷き、手帳を机に置いた。

「どこへ行ったんだ、俺の二日」

もんにくれてやった。見返りに、昨夜ひとつ閉じた」

 仁は店の奥を顎で示した。「地下へ降りる」


 鍵の間。裸電球が一拍遅れて灯ると、壁一面のくさりが鈍く光った。

 仁は棚から古びた木箱を引き出す。中には白く乾いた小石が並び、それぞれに墨で日付が書かれていた。

「俺の削れた日だ。門を閉じるたびに、ここへ落ちる。目に見える形にしておかんと、人はすぐ誤魔化す」

 仁は空いた列に小石を二つ置き、墨で今日の日付を入れる。

「お前のも、ここに置け。目の前で減るものは、守りやすい」


 由紀は無言で頷いた。木箱の石は、晴れの日の川原を縮めたように見える。触れれば温度はないのに、手の中でじわじわと重くなる。


「代償の話を続ける。削られるのは寿命だけじゃない。習慣、反射、嗅覚──細かいものも、欠けることがある」

 仁は指を組み、関節を鳴らした。「今朝、湯に手を入れて温度の見当がついたか?」

「……少し狂ってた」

「それも代償だ。だから二人で動く。もう一つ」

 仁は壁の鎖から自分の巻きを外し、床に置いた。

「逃げ道を、まず三本つくれ。門に向かう前にだ。お前は引く力が強い。強い奴ほど、退く動きを忘れる」


 由紀は鎖の先端に指を添え、床板へ軽く触れさせる。木の目がわずかに震え、すぐ奥の土が柔らかくなる箇所を探る。

 ひとつ、裏口へ抜ける狭い通路。

 ふたつ、天窓から屋根伝い。

 みっつ、カウンター下の隠し板から地下へ落ちる。

 頭の中に線を描き、足の置き場、鎖の支点、躓く段差をなぞる。


「よし」仁が頷いた。「三本見えるなら、四本目はいつでも延ばせる」

「師匠は、どうやって四本目を探してきた?」

「失敗して死にかけるたび、次の一本が見えた。死んだ仲間の分も含めて、俺の逃げ道は増えたんだ」


 仁の声は無造作で、温度がなかった。感傷にひたりすぎると、足が止まるからだ。

 由紀は息を吐き、鎖を肩へ巻き直した。

 階段を上がる途中、手すりを掴んだ指が震えていることに気づく。二日分の空白は、指先の感覚をわずかに鈍らせ、階段の勾配を平らに見せた。


 昼、商店街は人の気配を取り戻した。

 常連の老人が店に顔を出し、壊れた置時計を置いていく。「昨日も来たんだがな、留守で」

 昨日。由紀は首の後ろが冷えるのを感じ、笑って受け取った。「すみません。修理してお返しします」

 手の中で時計の背板を外す。ゼンマイの油は切れ、歯車に灰色の埃が溜まっている。ピンセットで丁寧に掬い、綿棒で油を差す。

 こういう作業は、欠けた二日にも耐える。指は、覚えている。


「神谷さん」

 戸口に女の子が立っていた。制服のスカート、片方の膝に絆創膏。

「何か買うのか」

「いえ……。昨日、商店街で、変な音がしました。鐘みたいな。怖くて」

 由紀は一拍だけ黙り、手を止めた。「逆方向を歩け。音に近づくな。万が一、また聞こえたら、角を三回曲がれ。直線は駄目だ」

「角を、三回」

「そうだ。できれば、誰かの話し声の聞こえる方へ」

 女の子は頷き、深くお辞儀をして去った。背中が消えたあと、店の空気がわずかに軽くなる。


 午後、陽が傾く。

 仁は椅子にもたれ、新聞の同じ段落を何度も読んでいた。紙面の写真は、いつか見た祭のスナップだ。

「師匠」由紀はそっと呼ぶ。「昨夜の鹿のやつ。首に引っかかってた舌、あれは何だ」

「向こうのものが、こっちの形を借りるとき、思い出の端切れを纏う。舌は、多分お前の記憶に残っている『言いそこねた言葉』だ」

「……だとしたら、俺は相当、喋っていない」

「そうだな」仁はわずかに笑った。「喋らない男は、喋らないまま死ぬ。喋るなら生きているうちにだ」


 夕刻。

 棚の奥の白い箱を取り出そうとして、指が空を切った。箱の縁は、二日前に左へ移したのだと思い出すのに、一瞬かかった。こういう微細な齟齬そごが、一日を疲れさせる。

 その疲れの上に、音が落ちた。

 鐘──遠くで、深いものがひとつ。

 昨日と同じ、いや、昨夜よりも重い。金属の振動が、背骨を伝って歯に響く。


 仁が新聞を畳んだ。椅子が床を擦る音がして、立ち上がる気配が前に来る。

「来た」

「ああ」

 由紀は戸を閉め、札を裏返す。《閉店》。

 カウンターの下の隠し板に指を入れ、落とす音を聞く。鎖は肩で呼吸し、皮膚から熱を奪っていく。

「逃げ道、三本」

 由紀が言うと、仁は短く頷いた。「四本目は歩きながら考えろ」


 外に出ると、色がひとつずつ抜けていった。

 夕焼けの橙が灰に溶け、看板の赤はくすみ、白線は薄く消える。

 音のする方へ歩く。商店街を過ぎ、河原へ向かう小道を抜け、堤の脇道に出る。

 川面は風もないのにひそひそと囁き、遠くの橋の上に、輪が浮かんでいるのが見えた。


 橋の幅は、車二台がすれ違えるほど。欄干の塗装は剥げ、橋灯のガラスには薄い苔がついている。

 輪は欄干の内側に重なり、橋のけたを食っている。

 近づくほど、冷気が濃くなった。空気は水になり、息は細い管を通るように抵抗を覚える。


「由紀」仁が言う。「今度は俺が支える。お前が縫え」

 由紀は頷き、鎖を握る。輪の縁は微かな光を滲ませ、かごの字に似た紋が脈を打っている。

 欄干の足元に第一の支点。対岸の橋灯に第二の支点。自分の腰に第三の支点。

 逃げ道は、橋の下流の斜面、堤の階段、欄干からの飛び越え──三本。目に焼き付ける。


 足を半歩送る。鎖の重さが手に馴染む。

「行く」

 投げた鎖が弧を描き、輪の縁に触れた瞬間、冷たいものが腕に食い込んだ。

 橋が低く唸る。欄干の塗装が粉になって浮いた。

 闇の内側で何かが動く。

 昨夜の鹿の頭とは違う。今度は、木の根の束が人の指に化けたような、ぎざぎざの手。

 その手が欄干を掴み、ひとつ、二つ、音を立てて握り潰す。


「引け」

 由紀は腰を落として踏ん張る。鎖の節と指の骨が同じリズムで鳴り、橋がわずかに上がる。

 輪が縮み、手が軋む。

 もう一息のところで、仁の声が飛んだ。

「止まれ。引きすぎるな。お前の肺のほうが先に破れる」

 由紀は呼吸を数えた。四つ吸って、六つ吐く。冷たいものを体内に入れすぎない。

 腕の中の鎖が、わずかに緩む。

 輪が、怯えるように震えた。


 そのときだ。

 橋の影──欄干と桁の落とす濃い影の中から、別の鎖の音が響いた。

 金属の擦れる乾いた音。だが、どこか湿っている。

 闇の縁を縫おうとして、別の誰かが、そこに鎖を入れたのだ。


 由紀は一瞬、力を抜きかけた。支点が崩れる。

 仁の掌が背中に当たる。「揺らすな。見てろ。誰だ」

 影の中、細い輪郭。コートの裾が風もないのに揺れる。

 顔は見えない。ただ、その鎖は赤い刻印を持っていた。こちらのものに似た、しかし、節の間に微かな歪みを含む別系統の光。


 由紀は歯を食いしばり、輪を締める。

 影の鎖も同じ節で締まり、橋の上に二本の線が交差する。

 闇の内側から、ぎざぎざの手が音もなく崩れた。

 輪の光がしぼみ、橋の鉄がゆっくりと元の形に戻る。


 冷気がほどけ、川風が戻った。

 由紀は膝を着き、掌を橋板につけて、残った振動を逃がす。

 息が肺の奥で燃えるように熱い。

 振り返る。影は、もういなかった。鎖の匂いだけが薄く残る。血に似た、しかし鉄より甘い匂い。


 仁が肩に手を置いた。「見たな」

「ああ」

「向こうの鎖に似ているが、あれは……」

「同業者、かもしれんし、敵かもしれん。どちらでも、いずれ正体は出る」


 橋の上に立ち上がる。夕闇は夜に変わり、町の明かりがまばらに灯っていく。

 欄干の塗装の粉が、風に吹かれて川へ落ちた。

 由紀は、指先に残る冷たさをもう一度確かめた。

 二日分の空洞は、まだ胸にある。そこへ、さっきの風景を詰め直すように、橋の匂いと川の音を覚え込ませる。


 手帳の白紙は、今夜のうちに埋めよう。

 欠けるたび、書き戻す。

 消えていくものを、鎖で縫い、言葉で縫う。

 それが、いまの自分にできることだと、由紀は思った。

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