第18話 灰と赤の境界
港を離れた三人は、海沿いの古い通りを北へ歩いた。
風は穏やかだが、潮の匂いの奥に、再び鉄の渋みが混じっている。
由紀は足を止め、鎖の節を軽く鳴らした。
音は短く、しかし波打ち際の方から即座に返ってくる。
その反響は、赤と灰の二つの色を持っていた。
「灰色がまだ近くにいる」
由紀の言葉に、仁は頷く。
「外輪は町中に散っているはずだ。灰色の鎖は“逆さ鐘”を鳴らす。鳴れば、お前の胸穴は開く」
影鎖が低く続けた。「開いた胸穴から、向こう側の時間が流れ込む。……それが奴らの目的だ」
通りを抜けると、小さな広場に出た。
中央には石の噴水があり、水は止まって久しい。
その縁に、港で見た白い影が立っていた。
遠目にも、胸に抱えた光が赤と灰に分かれて脈打っているのがわかる。
由紀が近づくと、影は顔のない輪郭をこちらに向けた。
──どちらを、選ぶの。
声が胸穴に響く。
赤は熱く、灰は冷たい。
だが、どちらも強く、どちらも呼んでいる。
「選ばない」由紀ははっきりと言った。
その瞬間、影は輪郭を崩し、二つに分かれた。
一方は赤い光の塊となり、もう一方は灰色の霧となって、広場の両端へ散る。
赤は北の鐘楼へ、灰は東の倉庫群へ向かう。
仁が短く息を吐く。「分断されたか」
影鎖が判断を下す。「赤は私と仁で追う。灰はお前だ、由紀」
由紀は頷き、灰の匂いを追って倉庫街へ走った。
石畳から土道へ変わる境界で、足元に湿った紙切れが落ちているのに気づく。
拾い上げると、それは古い名簿の一片だった。
奉仕会の名簿──しかし名前の部分はすべて灰色に塗り潰されている。
倉庫街は静かだった。
板壁には海塩が白く結晶し、軒下では古い縄が風に揺れている。
鎖の節がかすかに震え、正面の倉庫の扉が内側から開いた。
暗がりの中から、あの灰色のローブの人物が現れる。
手には再び灰色の節が握られていた。
「また会ったな」
声は低く、湿っている。
由紀は構えを取った。
「あなたの鎖は……何を繋いでいる」
ローブは小さく笑った。「名を持たぬ者同士、互いの心臓を繋ぐだけだ」
灰色の節が振るわれ、倉庫の中の影が一斉に動いた。
それは人の形をしていたが、すべて顔がなく、胸に空洞を抱えている。
由紀は一歩退き、鎖を広く展開する。
節が影の胸穴を縫うたび、灰色の光が散る。
しかし数は減らず、逆に増えていく。
胸の穴が冷たくなり、声が重なる。
──選べ。
──どちらの色を残すか。
由紀は唇を噛み、鎖を強く握った。
「選ばない。両方、縫う」
節が赤と灰を同時に縫い合わせ、倉庫の空気が一瞬止まった。
影たちは動きを止め、次いで胸穴を閉じて消えていく。
ローブの人物だけが残り、低く呟いた。
「……そのやり方は、長くは保たない」
そして再び灰色の霧に溶け、姿を消した。
由紀は倉庫を出て、広場へ戻る道を急いだ。
そこでは、赤を追った仁と影鎖が、鐘楼の前で構えていた。
鐘はまだ鳴っていない。
だが、空の色がわずかに赤く染まり始めていた。