第17話 鐘の渋み
町に戻ると、石畳の隙間にはまだ昨夜の雨が溜まり、路地の片隅では子どもたちが靴を濡らしながら跳ねていた。
しかし、由紀の鼻は別の匂いを捉えていた。
パンを焼く香ばしさや油の匂いに混ざって、鉄を薄く溶かしたような渋みが漂っている。
それは谷底の“心臓”に触れた時の匂いと似ていた。
仁は広場に立ち、遠くの時計塔を見上げた。
時計の針は正しい時刻を指している。だが、その根元で鐘の金具がわずかに揺れていた。
「……鐘は止まっていない」
影鎖が低く言う。「二度鳴った音は、内部の“外輪”が回った証。誰かが意図的に回している」
町の南端にある古い倉庫街。そこに鐘の音が届くと、道の両脇の家々から人影が消えていく。
戸が閉まり、カーテンが引かれ、犬が低く唸る。
由紀は鎖の節をそっと握り、匂いの強まる方向を探った。
節の表面が、ほんの僅かに赤みを帯びる。
「南です。鐘の匂いは……潮と混ざっています」
三人は路地を抜け、港へ向かった。
潮風の中に、鐘の渋みは確かに濃くなっていた。
埠頭の端に立つ石造りの塔──それは港の灯台であり、同時に“外輪”の一部でもあった。
塔の根元には、錆びた鉄の扉。錠前は割られ、内側から開け放たれている。
中は狭い螺旋階段が続き、壁には海藻がこびりついていた。
潮が満ちると内部まで波が届くのだろう。
階段を上るたび、鐘の音が遠くから、ではなく、耳の内側から響いてくる。
由紀は途中で足を止めた。
胸の穴がわずかに冷え、声が混ざった。
──また、来たのね。
──わたしの町に。
最上部の鐘室には、黒いローブをまとった人影が立っていた。
背は高く、手には小さな鎖を握っている。
鎖の節は、由紀のものと同じ形をしていたが、その色は濁った灰色だった。
「お前は……誰だ」仁の声が鋭くなる。
人影は振り返らないまま、低く笑った。
「名は要らない。ここでは、鐘がすべてだ」
その言葉と同時に、小鎖の節が鈍く光り、塔全体が震えた。
港の海面がざわつき、波が外輪の方向へ押し寄せる。
影鎖が由紀に目配せをする。
「節を叩き落とせ。鐘を止める」
由紀は一歩踏み込み、節を振り下ろした。
だが灰色の節は、由紀の鎖を受け止め、赤い火花を散らした。
火花は床に落ちず、空中で渦を巻き、小さな脈を作る。
その脈は瞬く間に鐘の縁に沿って広がり、港全体に響き渡った。
潮の匂いが渋みに飲まれ、港の影が長く伸びていく。
仁が背後から支え、影鎖が灰色の鎖を縛ろうとした。
しかし人影は軽く身を捻り、鎖をかわす。
「名を持たぬ者には、鎖は届かない」
その言葉に、由紀の胸の穴が強く脈打った。
──ならば、名を……。
声が喉元まで上がってくる。
呼べば、何かが変わる。
だが、呼べば戻れない。
由紀は歯を食いしばり、灰色の節に自分の節を重ねて押し込んだ。
金属同士が軋み、灰色の光がひび割れる。
港の波が一瞬止まり、鐘の音が途切れた。
その刹那、人影は鎖を手放し、塔の窓から海へ飛び降りた。
静寂。
渋みの匂いは薄れたが、海面には灰色の渦が残っていた。
仁が短く言う。「追う必要はない。……だが、鐘はまだ鳴る」
影鎖も頷く。「外輪は一つではない」
由紀は塔の外に出て、港を見渡した。
遠くの波間に、白い影が漂っている。
髪は水中のように揺れ、顔はない。
その胸には、赤と灰の光が同居していた。