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第16話 谷底の心臓

 祠の前の地面は、見た目にはただの砂利混じりの土だった。

 しかし靴底越しに伝わる冷たさは、地中のどこかで大きなものが眠っている証拠だった。

 由紀ゆきは膝をつき、土を薄く掻いた。爪の間に入った砂が、きめ細かく鳴る。

 浅い層を剥ぐと、黒光りする板のようなものが現れた。

 鉱石ではない。固く、しかし木の年輪に似た微細な縞を持つ未知の“材”。

 くさりの節を当てると、胸の穴が一気に冷える。


 じんが周囲を見回し、退路を確認する。

「逃げ道三本。沢を上へ、尾根への獣道、谷口の崩土の隙間。──よし、始めよう」

 影鎖えいさは外套の内から黒札を取り出し、周囲の地面に等間隔で挿した。

 札は風に震え、薄い音を立てて共鳴する。

「縁を静める。中心だけを起こせ」


 由紀は深紅の鎖を大きく一息で繰り出し、黒い板の継ぎ目に節を落とした。

 板がわずかに沈み、谷底に低い鼓動が広がる。

 同時に、土の下から冷たい水の匂いが立ちのぼり、足元の石が汗をかいたように濡れていく。

 胸の穴に、あの声が触れた。

 ──聞こえる?

 ──ここに、いるの。


 由紀は目を閉じる代わりに、目の動きを遅くした。

 視界を速く動かすと、声に足を掬われる。

 節を二つ、三つと続けて差し込み、板の下に鎖の“結び目”を作る。

 仁の鎖が上から重なり、影鎖の鎖が周囲の縁を縫う。

 三方向の力が合わさった瞬間、板はぱきりと音を立て、中央に裂け目を開いた。


 裂け目の奥は、光ではなく“時間”の色だった。

 夕焼けの教室、雨の停留所、病室の窓辺、夏の縁側──

 無数の場面が薄い紙のように重なり、風にめくられていく。

 由紀の胸の穴が、それらの場面の温度に一つずつ反応する。

 冷たい氷菓の甘さ、濡れた髪の匂い、手を握った時の皮膚の微かな汗。

 声が近い。

 ──返して。

 ──わたしの“まだ”。


「由紀」仁の声が低く落ちた。「深く入るな。引け」

「はい」

 由紀は節を結び目ごと捻り、裂け目の縁をこちら側へ折る。

 影鎖が合図もなく同じ動きをし、縁がふたつ、三つと重なる。

 裂け目が縮み、場面が遠のく。

 だが、その最後の紙を風が強くめくり、ひとつの映像が由紀の目に刺さった。


 古い社の境内、奉仕会の名簿。

 篠ノ目の文字。

 笑っている少女の口元。

 口は動いているのに、音が鐘に潰されて聞こえない。


 胸の穴が、痛んだ。

 名を呼びたくなる衝動が、喉を走る。

 呼べば、輪郭が立つ。

 輪郭が立てば、残響は強くなる。

 由紀は自分の舌を、奥歯で軽く噛んだ。

 血の味が広がり、呼吸が落ちる。

 名は呼ばない。帰路だけを、こちらに作る。


「結ぶ」

 声に出したのは、自分を正すため。

 由紀は鎖の結び目を、裂け目の下層の“芯”に落とした。

 そこは、見えないが、触れれば必ず分かる固さを持っている。

 芯が鎖を受け、音もなく頷く。

 仁の鎖が重く引き、影鎖が縁を切り上げた。

 三つの動きが一致した瞬間、谷底の鼓動が止む。


 風が変わった。

 山の匂いが一気に清くなり、湿り気が引いていく。

 裂け目は細い線になり、黒い板は土の色を取り戻した。

 由紀は両手を地面につき、熱い呼気を吐いた。

 胸の穴には、冷たい風が通るだけ。

 声は、いない。


 静けさの中で、影鎖が低く告げた。

「よくやった。……これで“種”は眠る。ただ、完全ではない」

「完全とは」仁が問う。

「“名”がこちらにある限り、どこかで芽が立つ。妹の名を口にしないのは、そのためだ」


 由紀は袖の内ポケットに触れた。湿地の鏡から救い上げた、細い紙。

 《奉仕会名簿 篠ノ目……》

 滲んだ文字は、そこで途切れている。

 名は、出ない。

 出さない。

 それでも、誰かがいた証は消えない。


 谷を上がる途中、細い雨が降り始めた。

 山の斜面に雨の筋が走り、赤い靄を洗い流していく。

 鎖の節が雨粒を弾き、金属の匂いが薄まる。

 仁が静かに言う。「山は持ち直した。次は、町へ戻る」

 影鎖も頷く。「戻れ。お前の町の“外輪”が再び動く。……誰かが、鐘を鳴らしている」


 山を下り切った時、遠い空で、短い鐘の音が二度、重なった。

 由紀は肩の鎖を確かめ、歩幅を僅かに広げた。

 帰路の先で、町の匂いが待っている。

 油とパンと、濡れた新聞紙の匂い。

 その中に、微かな鉄の渋みが混ざり始めていた。

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