第15話 種の目覚め
山腹は低く唸り続けていた。
地面の亀裂から立ちのぼる赤い靄は、木々の葉裏に張りつき、露のように震える。
黒い柱は、山の骨に突き刺さった杭のように空へ伸び、内部を血潮のような光が上下している。
由紀は鎖の節を握り、節ごとの脈が自分の脈拍を上書きしていくのを感じていた。
仁は山肌の傾斜を見切り、短く指示を飛ばした。
「上の尾根で支点を取る。由紀は柱の“目”を探せ。影鎖は縁を切れ。時間をかけるな」
影鎖は黙って頷き、外套の内から細い札を数枚取り出す。札は空気に触れるだけで黒く焼け、灰になって風へ散った。
「縁は荒い。切っても盛り返す。……“目”を潰すしかない」
“目”。
柱のどこかに、赤い脈が一点に収斂する部位がある。そこを縫い留めれば、山全体の鼓動が鈍る。
由紀は息を整え、柱の表面を見た。黒に見える皮膜は近づくと薄い鱗のように重なり、その隙間に赤が走る。
胸の穴がちりちりと疼き、視界の端に白い衣の影が揺れた。
女の声がする。
──返して。
──わたしの時間を。
由紀は声に引き込まれぬよう、節の冷たさで指を覚まし続けた。
柱の左側、傾斜が急にえぐれ、赤が“渦”を作っている箇所がある。そこへ節を軽く当てる。
脈が強く返った。ここだ。
「見つけました」
由紀の合図に、仁は尾根へ駆け上がり、鎖を岩角に回す。
影鎖は柱と地面の境に鎖を刺し、黒い皮膜を剥いでいく。
風向きが変わり、赤い靄が三人の顔を舐めた。舌先に金属の渋みが広がる。
由紀は渦の“目”に節を差し込み、力を込めた。
節が喰らい、柱が低く唸る。
足下の地面が波のように上下し、膝が取られる。
仁の鎖が上から重なり、引きの力が加わった。
渦が縮む──が、同時に山の奥から別の脈が押し返してくる。
影鎖が短く言う。「下層、起きた」
次の瞬間、柱の根元から黒い芽がいくつも噴き出した。
芽は蛇のようにうねり、三人に絡みつこうとする。
由紀は鎖を返し、芽の首根をひとつずつ縫い止めた。
だが芽は切っても切っても増える。
女の声が近い。
──返せ。返して。返して。
胸の穴が熱を持ち、視界の赤が濃くなった。
由紀は自分の名を、心の中で一度だけ呼んだ。
その名が胸の穴の縁に引っかかり、落ちかけた意識を持ち上げる。
節を渦に捻り込み、息を吐く。
「締めます!」
仁の鎖が上から強く引いた。
影鎖は地面の縁を切り、渦への補助線を作る。
三本の鎖が同じ拍で脈打ち、渦が潰れた。
黒い柱の内部で、赤い光が一度だけ大きく破裂し、そのまま沈む。
山の唸りが半拍ぶん、遅れた。
風の匂いが、土と樹皮の匂いに戻っていく。
柱はなお立っていたが、血潮の速度は目に見えて鈍った。
由紀は膝に手をつき、肩で息をした。
耳の奥に、まだ女の声が残る。
──いたくて、冷たくて、こわい。
──でも、しずか。
仁が淡々と言う。「目を潰した。今のうちに下る。反撃が来る」
影鎖は柱を一瞥し、低く付け加えた。「下層の“心臓”は別にある。……山の裏だ」
三人は尾根を回って裏斜面へ移り、枯れ沢を滑り降りた。
足枷のように重かった空気が、少しだけ軽くなる。
谷底に出ると、小さな祠がひっそりと立っていた。
祭祀を示すものは何も残っていない。ただ、地面が異様に冷たい。
由紀は節を土に触れさせ、顔を上げた。
「ここが“心臓”です」