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第12話 湿地の社

 湿地の縁を渡る木道は、水を含んで柔らかく沈んだ。踏み板の下で、水が小さく鳴る。

 夜明け前の空は、刷毛で曇りを薄く引いたような色で、鳥の声がまばらに散っていた。

 由紀ゆきは肩のくさりを少し緩め、袖にしまった鏡の破片を指先で確かめる。布越しの冷たさは、まだ芯を持っている。


 社は、昨日と同じように傾いていた。

 鳥居は片側の柱が泥に沈み、横木が斜めにずれている。軒の茅は腐り、垂れた縄の紙垂しでは湿り気で色を失っていた。

 じんが周囲を一周し、地面の赤い筋を踏まぬように足場を確かめる。

「昨夜、封じた余波が残っている。だが、拡がりは止まった」

「中、もう一度見ます」


 社殿の中は冷えていた。

 壁に貼り付いた御札おふだは、ところどころで墨が流れ、判読できるのはわずかだ。

 《籠》《鎮》《返》──褪せた字が、居場所を失っている。

 中央の石台の上に、昨夜粉々になった鏡の細片が散っていた。

 由紀は袖の内側から、残しておいた欠片を取り出し、すべてを一枚の布にまとめる。

 布はひんやりと重く、耳の内側で小さく鐘が揺れたような錯覚が走る。


 「記録は欲しいな」

 背後からの声に振り向くと、入口に影が立っていた。

 黒い外套の男──影鎖えいさである。

 彼は昨夜よりもやや疲れた様子で、外套の裾に湿地の泥がついている。


 仁が顎で石台を示す。「残響は沈めた。再燃の心配は」

「低い。だが“名”が残っている限り、別の場所で芽を持つ可能性はある」

 影鎖は布包みにちらりと目を落とした。

「欠片は私が預かる。影の系譜に組み入れれば、拡散を抑えられる」

「渡すのは構わない。ただ、その前に……」


 由紀は社殿の隅、倒れた賽銭箱の下に、紙束を見つけた。

 濡れて重くなった紙は、角がほぐれかけている。

 そっと広げると、鉛筆で走り書きされた帳面──この社の世話をしていた誰かの日録だった。

 二年前の春から始まり、季節の草や掃除の記録が淡々と続く。

 ある頁で、字が急に荒れる。


 《鏡が重い。夜ごと、女の影が映る。顔は見えない。名を呼ぼうとすると、舌が痛む。》

 《社に水が上がってきた。鳥居の足元が沈む。鏡の前に立つと、膝が濡れる。》

 《たすけて、と聞こえた気がした。名前を聞き返すと、鐘の音に潰れた。》

 《明日、役場に相談に行く。》


 そこから頁が途切れ、次に残るのは一枚の名簿切れ端だけだった。

 湿って文字が流れかけているが、半分ほど読める。

 《奉仕会名簿 篠ノ目……》

 次の字が、にじみで崩れていた。

 由紀はゆっくり顔を上げ、影鎖を見た。


 「……妹さんですか」

 影鎖は返事をしない。表情も変わらない。

 ただ視線が一瞬、布包みへ落ちた。

「“名”は口にするほど輪郭を持つ。残響は輪郭を好む。だから、私は名を呼ばない」

 静かな声だった。「それが私の選択だ」


 外で風が強くなり、社の板壁がわずかに鳴った。

 仁が手帳を取り出して言う。「役場の古記録から“奉仕会”の資料を引く。文化財課のミカゲを通す」

 由紀は頷き、帳面を布で包んで大切に肩袋に収めた。

 影鎖が一歩、石台に近づく。

「欠片を」


 由紀は布包みを両手で差し出す前に、短く言葉を添えた。

「昨夜、鏡が割れる瞬間、赤い点が二つ、こちらを見た気がしました。怒ってはいなかった。……たぶん、呼んでいた」

 影鎖は一瞬だけ目を伏せ、それから受け取った。

「呼びかけは“帰路”になる。ありがとう」


 外へ出る。湿地の空は、灰色に白が混ざった。

 鳥居をくぐる前に、仁が足を止める。

「もう一つ、ここでやることがある」

 彼は取り壊れかけの手水鉢ちょうずばちの縁に鎖の節を一つ当て、静かに回した。

 薄い音が響き、地面に走っていた赤い筋が、音に合わせてほどけていく。

 筋は土へ沈み、泥は普通の色に戻った。

「根の余韻を切った。次に来る者の呼吸が軽くなる」


 帰り道、木道の向こうに人影が見えた。

 古びた作業着の男性が、長靴の泥を払っている。

「この社の……世話を?」仁が尋ねる。

「ええ。祖父の代から。昨夜、変な音がして」

 由紀は肩の鎖に目をやられぬよう、少し体をずらして会釈した。

「ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です。ただ、鳥居の柱は近々、根継ぎをしてください。沈みます」

「そんな……費用が」

 影鎖がさりげなく視線を外に向けた。「町の外れの材木店に話を通す。奉仕会名簿の家へは、私から声をかける」

 作業着の男性はほっと息をつき、何度も頭を下げた。


 湿地を抜けると、風の匂いが変わった。

 鉄の渋さが薄れ、乾いた土の香りが混ざる。

 仁が言う。「山へ移る。廃坑だ」

 影鎖も頷く。「赤い脈が動いている。あれは“種”の兆候だ」


 道具店に戻るころ、商店街は昼の賑わいを取り戻していた。

 油の匂い、揚げ物の音、子どもの笑い声。

 由紀は店の奥で、鏡の帳面と名簿の切れ端を乾いた布で押さえ、箱に収めた。

 指先の紙の繊維のざらつきが、現実をつなぎ止める。

 胸の穴は、まだある。

 けれど、その縁に、湿地の冷たさと、誰かの「いた」が薄く重なり、崩れにくくなっている。


 夕方、戸を閉めようとした時、影が入口に立った。

 ミカゲだった。文化財課の腕章をシャツの上から雑に巻いている。

「資料、もう集め始めています。奉仕会の記録、戦前の社殿移築の図面、それから──廃坑の安全管理台帳」

 彼は薄く笑い、紙束を持ち上げた。

「山に入る前に、読んでおくといいですよ。……“赤い脈”の通り道が、地図に残ってます」


 紙束の一番上に、古い鉱山の断面図があった。

 層のように重なる坑道の線が、ところどころ赤鉛筆でなぞられている。

 赤は、湿地の筋と同じ色をしていた。

 由紀は深く息を吸い、紙に鼻を近づけた。

 インクと埃の匂い。

 その匂いは、たしかにこちら側のものだった。


 夜、店の灯りを落とす直前、遠い山の方からかすかな響きが届いた。

 水滴が落ちるような、鉱石が軋むような、低い音。

 鎖が肩でわずかに鳴り、了解の合図を返す。

 明日は山へ。

 土の奥の、赤い脈の心臓に触れに行く。

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