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第11話 外の匂い

 旧市庁舎の大門が閉じて三日。かご月町の朝は、妙に軽い空気で始まった。

 空はよく晴れているのに、音がどこか遠い。商店街のシャッターが上がる金属音も、パン屋の窯の蒸気の鳴る音も、耳の膜の一枚奥で鳴っているように感じられた。


 神谷道具店の奥、作業台に広げた布の上に、由紀ゆきくさりを置いた。深紅に起こされた節は昨夜より落ち着き、鼓動のような脈打ちは細くなっている。

 胸の奥の穴は、相変わらずだった。鏡を覗くと、そこに映る自分の顔に、一瞬だけ名前が追いつかない。代償は戻らない。それでも、洗面器の水の冷たさや油の匂いの確かさが、輪郭をつなぎ止めてくれる。


 階段を降りてきたじんが、地図を広げた。町の外周に赤い印が増えている。

「……外へ出る。均衡がずれた」

「外、ですか」

「ああ。町が大門で息を吐いた分、別の場所が吸い込んだ。影鎖えいさの男から連絡があった」


 林道は、昨夜の雨で湿っていた。籠月町を囲む低い山の裾野を抜けると、空がぐっと広がり、湿地が見える。

 風は弱く、匂いがよく分かる。鉄さびを薄めたような渋い匂いに、甘い腐葉の匂いが混じる。

 由紀は無意識に呼吸を浅くした。肺に入った空気が、ひと呼吸ぶんだけ重い。

「門の匂いだな」仁が言う。「まだ芽だが、土壌が呼んでいる」


 湿地の中央に、神社の残骸があった。鳥居は斜めに倒れ、社殿は半ば沈んでいる。軒から垂れた縄の先に結ばれた紙垂しでは、湿り気を吸って地に貼りついていた。

 社の前で足が止まる。地面の泥に、赤い筋が糸のように走っている。鎖の紋に酷似した線だ。

 由紀は鎖を肩から外し、節を泥に軽く触れさせた。冷えが掌に移り、節の一つがかすかに灯る。


「中だ。逃げ道は三本」

「来た道と、社の裏手の乾いた畦道、それから……」由紀は周囲を見渡し、倒れた鳥居のはりを指した。「梁を経由して土手へ」

 仁がうなずく。「よし」


 社殿の中は薄暗かった。壁に貼られた古い御札おふだは、墨が滲んで判読できない。床板の間からは冷気が上がり、鼻の奥が痺れる。

 正面の石の台座に、割れた鏡が置かれていた。鏡面は水を吸ったように黒く、わずかに波打っている。

 その黒の中に、影が立った。長い髪、白い縁のない衣。顔は、見えない。


 仁が短く言う。「由紀、触れるな」

 由紀は一歩手前で止まり、鏡の縁に鎖をかけた。節が光る。黒の表面が震え、冷たい風が頬を撫でる。

 影は床に一歩、降りた。足の裏は泥よりも冷たく、歩くたびに板の節目が白く凍ったように見えた。


 伸びてくる手がある。指は細く、爪はなく、掌は空洞のようだ。

 鎖を返す。節が掌に巻きつき、音もなく締まる。

 その瞬間、鏡の奥で鐘が鳴る。聞こえるというより、骨の内側で響いた。

 影の手が微かに震え、次の瞬間には霧のように薄まる。

 だが、薄まった分だけ、鏡面の黒が濃くなった。


「核に届いていない」仁の声が後ろから飛ぶ。

「はい」由紀は短く答え、鎖の角度を変えた。

 鏡面の端の、ほんのわずかに凹んだ部分──そこから冷気が強く漏れている。

 節をそこへ落とす。

 胸の穴が、ざわりと広がった。目の奥に赤い光が走り、失った名前が一拍ぶん遅れて戻る。


 影が顔を上げた。顔はない。だが、目があるべき場所に赤い点が二つ灯った。

 その赤は、怒りというより、呼びかけに近い熱を持っている。

 由紀は低く囁いた。「帰れ」

 鏡の中の水面で、赤が揺れた。

 鎖の節が、鼓動のように二度、光る。

 影は一歩後ずさり、鏡へ沈んだ。黒は波立ち、割れ目へと吸い込まれていく。


 最後の薄膜が引かれる時、鏡の破片がひと欠け、石の上に落ちた。

 破片の中で、赤い点が一瞬だけまたたいた。

 由紀は破片を布で包み、袖口の内側に隠した。

 社殿の空気が緩み、湿地の匂いが元の深さに戻る。


 外へ出ると、風が少し出ていた。葦が擦れ合う音が大きくなる。

 仁が歩きながら言う。「芽をひとつ潰した。だが、これは残響だ」

「残響」

「大門に飲まれた人の影だ。影は、似た場所に芽をつくる」

 由紀は袖の中の破片を押さえた。布越しに、わずかに冷たい。


 湿地を抜ける手前で、道の端に黒い外套が立った。影鎖の男だ。

 顔は相変わらず陰に沈み、声だけが硬い金属のように響く。

「封じたな」

「はい。残したのは、欠片だけです」由紀は袖に目を落とす。

 男は小さくうなずき、短い沈黙のあと、言った。

「残響は、私の身内だ」

 仁が目を細める。

 男は淡々と続けた。「妹だ。名は……もう、出ない。影に沈んだ名は、口にすべきではない」


 風が強くなり、乾いた紙垂が地面で擦れた。

 由紀は言葉を探したが、見つからない。

 代わりに、鎖を少しだけ緩めた。金属が「了解」のように鳴る。

 男はそれに目を落とし、視線だけで礼を言った。


「外は広い。お前の町で閉じた分、他が開く。次は山だ」

「廃坑のことですか」仁が聞く。

「そうだ。赤い脈が動き出している。三人で行く」

 男は踵を返し、湿地の外れに消えた。


 帰り道、由紀は袖の内側の破片をそっと取り出し、夕日にかざした。

 赤はもう光らない。ただ冷たい。

 それでも、そこに誰かの「いた」が薄く残っている気がした。

 胸の穴が少しだけ塞がる。穴のふちを、冷たい欠片が支えてくれる。

 道具店の屋根が見えるころには、町の音がいつもの距離に戻っていた。

 いい。呼ばれたら、すぐに返事ができる。自分の名に、間に合う。

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