第10話 旧市庁舎
夜明け前。
籠月町の中心にある旧市庁舎は、濃い霧に包まれていた。
外壁は戦火で崩れ、窓はすべて割れ、鉄骨が骨のように剥き出しになっている。
その内部から、低く唸るような音が響いてきた。
──門の鼓動だ。
由紀は深紅に変わった鎖を肩に掛け、仁と並んで立った。
影鎖の男も、無言でその隣にいる。
三人は無言のまま視線を交わすと、正面玄関の鉄扉を押し開けた。
中は、かつての役場の面影をほとんど残していなかった。
床一面に黒い根が這い、壁からも天井からも腕のような影が伸びている。
根の中央には、巨大な裂け目が口を開けていた。
裂け目の向こうは闇ではなく、濃い赤に満ちた別の空間──大門の先だ。
「由紀、お前は上層を押さえろ。俺が根元を封じる」
仁が短く指示を出す。
影鎖の男は低く続けた。「俺は裂け目の縁を切る。……間違えれば、全員飲まれる」
三人が同時に動いた。
由紀は鎖を放ち、天井から降りる影の腕を絡め取る。
節が赤く脈打つたび、腕は悲鳴のような音を立てて崩れた。
だが、崩れた先から別の腕が次々と伸びる。
まるで門そのものが、生きてこちらを捕らえようとしているかのようだ。
仁は床の根を踏み砕きながら鎖を食い込ませる。
根は火花のような赤い光を吐き出し、抵抗を続ける。
一方、影鎖の男は裂け目の縁を切りながら、古い言葉で何かを唱えていた。
その声は低く、だが空間全体に響き渡る。
突如、裂け目から巨大な影が飛び出した。
それは人の形をしていたが、顔はなく、全身がうねる紋様で覆われている。
門の番人──大門を守る存在だ。
由紀は一歩前に出た。
鎖を振ると、節が空気を裂くような音を立てた。
番人の腕と鎖がぶつかり合い、火花のような光が散る。
胸の奥の穴が熱くなり、視界が赤く染まる。
代償と引き換えに得た力が、全身を駆け巡っていた。
「今だ、締めろ!」
仁と影鎖の男の声が重なる。
由紀は渾身の力で鎖を引き、番人を裂け目ごと縫い付けた。
節が全て赤く光り、裂け目が轟音と共に閉じていく。
最後の光が消えた時、旧市庁舎の空気は一気に軽くなった。
霧が晴れ、窓から朝日が差し込む。
だが、由紀の胸の穴はさらに広がっていた。
名前を呼ばれても、一瞬、自分のことだと分からなかったのだ。
町は救われた──だが、それは始まりに過ぎなかった。
仁は地図を丸めながら、静かに告げた。
「……次は、この町の外だ」