五話 七瀬
スケッチブックを閉じると、鉛筆の芯の匂いが少しだけ鼻をついた。思わず息を止めて、もう一度ページを見返す。そこには、描きかけの後ろ姿があった。
花火を見上げていた四人。
そこに私の姿はない。
どうでも良くなって、鉛筆を置いた。風が吹いて、カーテンが揺れる。夕方の空気は生暖かくて、少しだけ、夏の匂いがした。
想い出は、夜風と共にある。誰かの声、笑い方、花火の音。全部、風に紛れて、輪郭を失っていく。
私が描こうとしたのは、忘れたくなかったからだ。
私が泣かない代わりに、絵の中の自分は泣きたかったのかもしれない。私は言葉にできなかった代わりに、線を引いたのかもしれない。
でも、それはただの綺麗な嘘だ。
本当のことなんて、誰にも描けない。綺麗なものしか、紙には残らない。だから、想い出の私は、いつも笑っている。泣いている私は描けない。
本当の私は、その隣で目を伏せたまま。
カラン、と小さく風鈴が鳴った。
その音で、私は顔を上げる。教室の窓の外には、月が出ていた。髪が少しだけ揺れて、涙が出そうになる。
でも、出なかった。
「……そろそろ、描き直さないとね」
誰にも聞こえないように、そう呟いた。消しゴムに力を込められた紙は、グシャリと形を変えてしまった。少しだけ形を直してスケッチブックを閉じる。その音にはまだ少しだけ、幼さが残っている気がした。
花火は、まだ咲いていない。
けれど、いつかまた、あの空を描きたい。
今度こそ、綺麗な嘘じゃなくて。
少し背丈がある少女はその長い髪をひとつにとめ、いくべき場所へと踏み出した。