四話 華蓮
洗面台の鏡に、ぼんやりと映る自分の姿。白いシャツ、緩んだネクタイ、少し赤くなった目元。
「……疲れてるのかな」
そう呟いて、私は制服の襟を正した。けれど鏡の中の自分は、昔と同じ顔をしていた。何も変わっていないように見えて、何もかもが違う。
廊下に出ると、走りながら、すれ違った後輩が「おつかれさまです!!」と声をかけてくれた。
私も軽く手を振って、笑顔を作った。
それだけで、どっと疲れた。
──私は、昔から笑うのが下手だった。
教室の前を通り過ぎる。中からは誰かの声がしたけれど、ドアは開けなかった。覗かないようにして、そのまま階段に歩みを進めた。
思い出したくないことばかりなのに、なぜか足がそっちへ向かってしまう。
あの夏、私は嘘ばかりついていた。
本当は、もっとちゃんと話したかった。もっと泣きたかったし、もっと謝りたかった。
でも、全部、できなかった。
どうか私が溢れないように。誰も褪せない思い出と、この心の謝りを呑み込んで、私が背を向けて、いつの間にか終わったあの時を忘れるように。私の世界は今日も、知らない私がいるばかり。私は昔から、嘘を吐いてばっかり。
「──華蓮?」
名前を呼ばれて、足が止まった。振り返ると、階段の数段上に光が立っていた。
「……久しぶり」
光の声は、あの日と変わらなかった。変わらないけど、どこか“距離を測るような声音”で。
「うん。ほんとに、久しぶり」
私は微笑んで答えたけれど、その声が自分のものじゃない気がした。
「来てくれたの?」
その言葉に、喉の奥がきゅっと詰まった。私は、うなずくだけしかできなかった。
──ごめんね、って、言いたい。
だけど、誰に?
何に?
それすら、わからなくなっていた。
昇降口の窓の外では、風が強くなっていた。靴の音を響かせながら、私は階段を下りる。
呼び止めてくれる声がなかったら、私はきっと、ここから立ち去っていた。
それがわかっているから、あの「華蓮?」という一言だけで、少しだけ、戻ってこれた気がした。
風鈴の音と、最後の花火の音。
どちらも、私には、よく似ていた。