三話 隼
自動販売機の前で、缶コーヒーを選ぶふりをしながら、誰かが通り過ぎるのを待っていた。
階段を上っていく足音。制服のズボンが擦れる音と、笑い声がかすかに聞こえる。
──令、か。
隠れたつもりじゃなかったけれど、たぶん隠れていた。自分でもよくわかってる。
「……ああ、無理だって」
ボタンを押すと、缶が落ちてくる音がやけに大きかった。取り出して開けると、コーヒーの匂いがふっと立った。
何かを伝えようとすると、いつも言葉が足りなくなる。
うまく言えない。何をどう言えば、誰かにちゃんと届くのか、わからない。
だから、僕は喋らないようにしてきた。そうすれば、嘘をつかなくて済むと思ってた。
花火の夜のことだって、本当は、ずっとずっと覚えてる。
あのとき、言えばよかったことがあった。けれど、怖かった。“それ”を言ったら、自分だけが仲間じゃなくなる気がして。
花火も、光の笑顔も、令のまっすぐな視線も。七瀬の無表情も、君の小さな嘘も。
みんな、綺麗すぎて、僕だけがそこにいてはいけないような気がした。
だから僕は、黙っていた。今も、何も言えないままだ。
「もう少しでいい。……もうちょっとだけでいい」
そんな言い訳を、今日までずっと引きずっている。コーヒーの缶を見つめながら、そう呟く。
夕焼けが差し込む廊下の端。誰にも見られない場所で、僕はひとりだった。
──風鈴の音が、どこかで鳴った気がした。