二話 令
教室の扉を開けると、窓際の席に光がいた。机に肘をついて、窓の外を見ている。風が少し吹いていて、カーテンがゆっくり揺れていた。
「……いたんだ」
僕がそう言うと、光は少しだけ顔を上げて、口を開く。
「そりゃいるでしょ、よく来たね」
限りなく自然に近い笑顔。普通の人には笑っているようにしか見えない。あの夏の時以来、君は薄い透けた仮面をつけている。光は昔からそういう人だった。
「……あのさ」
何か続きを言いかけた。けれど光はもう、また視線を戻していた。
──そういうとこ、変わってないな。
僕は何も言わず、窓の外を見る。窓の向こうでは、灰色の空が少しずつ赤く滲んでいた。それは、夕焼けというよりも、火が灯る直前の空の色だった。
──夜に近い色。あのときと、同じだ。
真夏の夜だった。永遠に続くような暑さの中で、僕たちは木陰に座っていた。花火が咲くのを待っていた。空はまだ明るくて、街のざわめきも、遠くの蝉の声も、全部、火花の前座みたいだった。
忘れちゃった?
誰かがそう言った。僕かもしれないし、誰かかもしれない。
もう、わからない。
わかるのは、そのときの自分が、誰かの仮面みたいな笑顔を、まだ信じきれていなかったということ。
火の花が夜空を照らした瞬間、僕の心の奥にあった何かが、ふっと熱を持った。
──ただ、心より大事なものを見つけたかった。
それだけだったのに。
目の前にあったそれを、僕は、手放した。まるで、わざとみたいに。今の僕は、誰かの目を見るのが怖い。その奥に、自分が映ってしまうのが、怖い。
だから、誰の前でも、無意識に笑ってしまう。きっと、あのときの僕と、同じように。
僕は、嘘吐きだから。
心の中で小さく呟いた声は、窓の外へ吸い込まれた。その靡いた光の髪は少し透けて、輝いて見えた。
もう一度、光に何か言おうとしたけれど、声は出なかった。
「令、ごめん、荷物見てて」
不意をつかれたみたいに、君は席を立った。
「どこに行くんだよ」
「トイレだよ、女子にそんなこと言わせないで」
少し突き放されたような、でも昔の感覚が少し戻ったような感覚だった。
光が教室から出ていって、また少し静かになった夕方の初夏の教室には、遠くの雷の音がカーテンを揺らしていた。