承 変身なんか……できません(するけど)
「困るんだよねー。確かにうちはボロ家だけどさぁ、丁寧に使ってくんないとさあ」
バーコード頭の老人に頭ごなしに叱られて、寿璃恵はひたすら頭を下げていた。
ここを借りて十数年、顔を合わせるたびに小言を言われ続けていたが、今回は窓ガラスを破損させたという攻撃材料があるからかひどく強気でぐいぐいと責めて来る。
元々気が強い方ではない。寿璃恵が半泣き状態でペコペコ頭を下げるしかない。
「にゃーん」
暗がりの中、心配そうにうにゃと名乗った妖精が寿璃恵の足元にすり寄ってきた。慰めているようだった。
「猫! ここはペット禁止だって言ってあったでしょ!」
「……え、いえ、この猫は……」
「契約違反だ! 今すぐ出て行けっ!」
――そんなわけで寿璃恵は摘まみだされるように家を追い出されてしまった。
「……どうしよう」
ギリギリの生活に荷物などほとんどない。
部屋に残っているのはこたつとふとんと鍋と皿程度だが、あの大家の様子からいってもう部屋に入ることはできなさそうだ。
「どうしようどうしようどうしようどうしよう」
寿璃恵にあるものは今着ているもの、擦り切れた毛布、そしてパート先と連絡を取るための携帯電話と全財産が入った財布だけ。残金三千円。
明後日が給料日なのがせめてもの救いか。
「ネットカフェがあるにゃん?」
寿璃恵の足元に黒猫がすり寄ってくる。さっきまで部屋の暗がりではっきり見ることができなかったが、街灯の光で本当に猫が喋っているのだと実感がわいてきた。
妖精を自称していたが本当は猫叉とかそういう妖怪ではないのだろうか。
こちらを見るのは緑と青のオッドアイ。全身真っ黒の中に色の違う双眸がやけに目立つ。
どうやら怪我をしている様子も、どこか痛みを覚えている感じもない。とりあえず蹴りは無効ということで良い――のだろうか。
「そっちの方がホテルより安いにゃん」
「……む、無理……、わ、私、日給が3,500円だから、ネカフェに泊まるほどのお金、ないんです……」
「一日3,500円っ!? もっと働く時間増やさないと破産するにゃん!」
「で、でも、十四時間以上はとても無理で……、あ、朝から夜まで働くさすがにへとへとになってしまって……」
給料が少ないのはひとえに体力がない自分のせいなのだ。後半消え入りそうな声でそう言うとうにゃは驚いたように背中の毛を逆立てた。
「14時間働いて日給3,500円なのかにゃん!?」
「……そ、そうです。最低12時間は働かないと、無給になってしまうので」
「時給250円にゃん!? 正社員より低いにゃん!!」
「で、でも、パートだから……そ、そんなものじゃあ」
「違うにゃん! 絶対おかしいにゃん! そんな極悪非道な真似、普通の人間の所業じゃないにゃん! きっとジュリエのパート先の店長こそ妖魔だにゃん!」
「……妖魔?」
うにゃを追いかけるように、寿璃恵のパート先であるスーパーへ向かう。
走りながらうにゃは自分が寿璃恵のところへとやってきた経緯を説明した。
「うにゃたち妖精たちが住んでいる妖精界は人間の夢と同じ不安定な世界なんだにゃん。だから時々、悪意を持った妖精ではない妖魔が生まれることがあるにゃん。妖魔の力は妖精には通じないから人間界にやってきて人間に対し悪行を行っているんだにゃん」
「……あ、あく、ぎょ……う……?」
「人間の体を乗っ取って、他の人間にありとあらゆる手段を使って嫌がらせをするんだにゃん。そうやって生まれた悲しみや怒りと言った人間の負の感情が妖魔たちのごちそうになるにゃん」
何だかありがちな話だと寿璃恵は思ったが、いかにせん息が切れていて何もコメントすることができない。
うにゃはスーパーの店長が妖魔だと言ったが、店長は嫌がらせなどしていないと思ったが、それも苦し過ぎて口にはできなかった。
長時間働く体力と走り続ける体力は別である。
加えてこのところ金欠でまともに食事すらしていないのだ。スタミナなど皆無に近い。
「ここにゃん!」
「ま……まだ、……いる、みたい……で……す……」
従業員用の駐車場に店長の車が停まっているのを確認して寿璃恵はうにゃに伝えた。
時間的にはそろそろ閉店作業も終わる頃だろう。
この裏口付近で待っていれば店長に対面できるだろう。
「ジュリエ、先に変身にゃん」
「……へ……へん、しん……?」
何度も深呼吸を繰り返していても全然息が整わない。荒い息も絶え絶えにその言葉を繰り返す。
さっきから変身変身というが、何に変身するというのだろうか。
どうでもいいが、変身以前に寿璃恵は既に虫の息だ。変身したところで妖魔とやらに勝てるのだろうか。
「これを身につけるにゃん!」
うにゃの両目がきらっと光ったかと思ったら寿璃恵の目の前に目の部分だけを覆う仮面が出現した。
キラキラと光りを放つそれを吸い寄せられるかのように寿璃恵は手に取ると操られているかのように装着していた。
ヴィィィンと何かが震えるような感覚とともに、体中に熱が広がる。
知らぬ間に閉じていた目を開いて自分の体を見下ろせば、全身黒いワンピースに黒いマント、全身黒い恰好になった寿璃恵がそこにいた。
「魔法喪女! 誕生にゃ!」
「……ま、魔女……なんじゃ……?」
「魔女は放送禁止用語にゃん」
そういう配慮なのか、と納得して寿璃恵はとりあえず頷いておいた。
「ど、どう、すれば……?」
魔法喪女に変身したとはいえ、何をしたらいいのかはわからない。
うにゃに問いかけたその瞬間、スーパーの裏口のドアが開いた。
「来たにゃん!」
「……へ、……あ、は、はい……」
疲れた様子でふらふらと裏口から出て、裏口の施錠とセキュリティーの操作をしている店長の背後に一人と一匹が足並みそろえて肉薄する。
「この妖魔め、魔法喪女が退治するから覚悟しろにゃん!」
「……え……あ、……ど、……どうやって……」
「っはあああ? 何言ってんだ不審者か!?」
疲労感からのイラつきか、据わった目で寿璃恵たちを睨みつけて来る店長に、寿璃恵は震えた。
口調も何もかもが怖い。
「ジュリ! 心に抱えている鬱憤を叫べば、それがジュリの魔法になるにゃん!」
「……え……う……鬱憤……?」
変身したから本名は出さないのか、それでもジュリエがジュリになった程度で誰を騙せるというのか、そんな訳のわからなさが更に混乱を極める。
半ばパニックになりながらも、寿璃恵は考えた。
鬱憤。――心の奥底にあるもの……?
「……も、も……喪女が! 全員ボーイズラブを好きだと思うなああああ!!!!」
鬱憤といわれ寿璃恵の脳裏に浮かびあがったのはこのスーパーで働いてきた日々だ。
『田中さんもあれでしょ、流行りの腐女子って奴! 男同士の恋愛が好きだとか! 見た目通り気色悪いなぁ』
『田中さん、BL好きでしょ! やっぱりヘタレ×俺様最高だよね? え?なんでそんな微妙そうな顔してんの? もしかしてリバとか? リバ好きとかありえないでしょ! 神経疑う!』
『うわ! 俺田中さんにさわっちまった、キモ! 腐がうつるぅ!』
そう言われて全部否定することができないままずっと飲み込んでいた。
寿璃恵は同性愛に対して何の感情もないのに。というか腐女子になれる生活の余裕なんて、ない!
叫んだ瞬間、ぶわっと静電気が生じた時の神が逆立つような感覚があった。
いつものように伏せていた目を必死で上にあげてみれば、こちらを憎悪のこもった目で睨みつけている店長の頭上に赤い光で縁取られた巨大なげんこつが浮かびあがっている。
「いきなり妙なことを! つーかあんたは何なんだ! 変態みたいな仮面をかぶりや――」
ズガン!
完全に不審者対応の台詞を口にする店長に、頭上に合ったげんこつが振り下ろされた瞬間、耳をつんざくような激突音が辺りに響き渡った。
音に驚き、寿璃恵は腰を抜かしてその場にへなへなと座り込んだ。
久しぶりだった。
自分の気持ちをそのまま口にしたのも、思いきり怒鳴ったのも。
光に包まれたげんこつが消えた場所に店長は転がっている。
「……ま、ま、ま……さか……」
「すごいにゃん! まさかここまで強大な魔法が発動するなんて思ってなかったにゃん! ジュリエは天才にゃん!」
「……え、……そん……な、こと……は……それより、店長……は、もしかして、死んで……?」
「大丈夫にゃん! 人間にもある程度ダメージを与えているけど命には別状はないはずにゃん。半死状態にして妖魔を引きはがすだけにゃん」
命に別条がないなら、とほっとしかけて寿璃恵は首を傾げた。半死? というと……?
「さあ、店長にとりつく妖魔! 出て来るにゃん!」
やたらと強気な態度でうにゃは転がったままの店長へと近づいて行った。
ぴくりとも動かない店長の横に立ちはだかって朗々と言い放つ。
「ジュリエがとどめの一撃をおみまいするにゃん! 覚悟を――ん?」
何かに気づいたかのようにうにゃは疑問の声をあげ、店長の顔をのぞきこみ、その後店長の周囲をぐるぐる回りながらも臭いをかいで様子を窺い、はっとした様子で大きく飛びずさった。
「やば! ……こいつ妖魔じゃなくて人間だったにゃん!」
「……え……?」
うにゃのこぼした言葉に思わず耳を疑った。
「……よ、妖魔、じゃ、……ない……?」
「悪辣さが妖魔以上に妖魔っぽいから間違えちゃったにゃん。てへ☆にゃん」
寿璃恵の方に顔を向けてぺろっと舌を出すうにゃに寿璃恵は何と言葉を発していいかわからなかったため沈黙するしかなかった。
何ていうか、かわいい顔でひどい猫妖精である。
「それよりジュリエ! すごいにゃん! 鬱憤ってそれ? なんて疑ってごめんにゃん。うにゃの予想以上の魔法の使い手だったにゃん」
「……ま、ほう……、私、の……?」
「そうにゃん! ジュリエの魔法にゃん! 自信をもって鬱憤をもっともっと貯めるにゃん! その負の感情がジュリエの魔法をもっともっと強力なものにするんだにゃん!」
「……」
何か、何となく、ニチアサの変身ヒロインたちと大きくかけ離れている魔法のような気がする。
でもうまくそれをツッコむこともできず、寿璃恵は再び黙りこんだ。
時刻は深夜に差し掛かろうという時間。
妖精の勘違いで地面に転がっている男が一人と、喪女とそして猫が一匹。
考えれば考えるほどこの状況が意味不明で、寿璃恵はもう理解を諦めることにした。
人生ずっと諦めで生きてきたのだ。これを諦めることぐらい容易いことであった。