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ネコと少女と男のLOVE

「先輩、スマホの解析、終わったらしいっすよ」


 事件現場での邂逅から数日後。コーヒーの匂いが充満する刑事部のオフィスで、愛宕がExcelと格闘している中、その知らせが入った。


「ようやくか、で解析結果は?」

「これっすね」


 足柄は両手いっぱいに抱えた紙の束を、彼の目の前に置く。被害者3人分の通話記録、チャット履歴、および抜粋したSNSの内容が纏められているため、その量といえば、一人では一日かけても到底見切れないほど膨大であった。


「まあ覚悟はしてたが」

「先輩はヒナゴエのを、俺はウエマツの資料から確認していきます」


 そうして、尻にイボが出来るほど、彼らは齧り付くようにして机に向かった。何の仕事をしているのか分からない課長はさて置いて、外回りに出ていた他の捜査員が、それを終えて帰ってくるほどの長丁場であった。しかし、被害者たちに繋がりらしい繋がりは見つからない。


「あ゛ー、取るに足らん情報ばっかだな」

「全員、SNS中毒ってほどでもないですしね」


 日はすっかり陰り、雲にまみれた夏空に月が浮かぶ頃、お手上げだと言わんばかりに、二人は同じタイミングで、肺に溜まった酸素を吐きつくした。付箋が重なる紙束の中から一部を取り出し、それを団扇のようにして扇ぎながら愛宕が呟く。


「このヒナゴエって女、本業の裏で、パパ活もしてたみたいだな」

「稼げないキャバ嬢は大変っすね」

「お前の方は収穫あったのか?」

「何も。まあ強いて挙げるとしたら、このウエマツって男、いろんなプラットフォームで、やたらめったら誹謗中傷に励んでたことくらいですかねえ」

「いるんだなあ、暇人って」

「警察の事も言ってますよ、税金泥棒だの、上流階級の犬だの」

「いってくれるじゃねえか、生きてたら俺が殴ってたところだ」


 被害者たちの共通点は無し、そのため、犯人のターゲットを選ぶ基準も分からず、次に誰が狙われそうか等の予測も立てづらいものとなった。限りなく無差別に近く、しかし何らかの規則性に従って犯行に及ぶ、それが彼らの中にある、現状の犯人像である。


「そういや、あのネコのガキが言ってましたよね、他の事件現場にも落書きがあったって」

「ああ、ウエマツはラース、ヒナゴエとハラシタはラストだ」

「色欲がかぶってるのは、なんか繋がりがあるんすかね」

「さあな、パパ活してたヒナゴエは当てはまるかもしれんが、ハラシタはコスプレ姿をSNSでお披露目してたくらいで、ラストにはなり得んだろ」

「うーむ、そうっすねえ」


 足柄は再び、ハラシタの資料に目を通す。通話履歴は親や友人のみ、チャットアプリの履歴も同様、SNSで顔を隠してコスプレ活動をしている点を除き、とりわけ特徴のない女子大生であった。


 また彼女を含め、その他の被害者たちが使用していたアカウントには、何通かのダイレクトメッセージが来ていることも確認できていた。犯人からの接触という可能性も含めて解析済みだが、IPアドレスから割り出した発信源、つまり住所がバラバラであることから、その線は消えたのである。


 足柄は資料を改めて見返したが、やはり捜査は行き詰ったものと思われた。しかしここで意地を見せたのは愛宕。


「もし、この大罪が被害者を指すものでなく、犯人自身の感情を表しているものだったら、共通点はあるかもしれないな」

「あー、あり得ますね! ていうかそれしかないっすよ!」


 紙面やモニターとの睨めっこで充血してはいるものの、水面のように輝く足柄の目を見て、愛宕はふっと息を洩らして言う。


「と言ったところで、今日は仕舞にするか」

「え、まだまだこれからじゃないすかっ、ようやく手がかり掴めたんすよ?」

「ばか、今何時だと思ってんだ」


 彼の言葉にハッとした足柄は、スマホの待ち受け画面に目を向ける。映し出されている時刻は23時を過ぎようとしていた。気付けばオフィスには誰もおらず、唯一点灯していた蛍光灯が、スポットライトのように、暗く2人のみを照らしていた。


「先輩、送ってってもらえます?」

「またか。まあでもなんだ、ついでに飯でも行くか」

「いつものジョナサンっすね」

「こんな時間だからな」


 そうして2人は、警察署から車を走らせて15分程度の場所にあるファミリーレストランへと向かったのであった。


 ————時間は進み、翌日の昼頃。


 午前の授業の終わりを告げる鐘が響き、校舎全体がまるで解き放たれたような活気に包まれる。教室の扉が次々と開き、生徒たちが思い思いの昼食を手に、楽しそうに集まっていた。


 机を寄せ合いながら輪になって弁当を広げる生徒たちの姿。カラフルなタッパーやコンビニのおにぎり、手作りのサンドイッチ。誰かが持ってきたお菓子が回され、隣同士で箸を伸ばし合いながら、あちこちで笑顔が伺える。


 そんな昼休みの喧騒の中、教室の隅であつまるグループに、ひっそりと舌鼓を打つ男子生徒がいた。ごく普通の、これと言って特筆することのない生徒、彼は、友人の話を右から左へ受け流し、箸の手は止めず、ただ一点を呆然と見つめる。


 ————小鳥遊さん、読んでくれたかな。


 彼は今朝、認めた手紙を小鳥遊の下駄箱に忍ばせていた。その内容は、彼女を昼休みに理科室へと呼びだすものである。当然ながら、それは小鳥遊の目にも留まっていた。


「あれ垣内、もう食べ終わったの?」

「ん、ああ、ちょっと用事があってさ」

「ほーん」


 母親が手心込めて作り上げた弁当を、味わうことなく胃の中へ押し込んだ男子生徒は、空になった容器をせっせと片付け、席を立った。小鳥遊は未だ食事中だが、ひと足先に理科室で待つ試みである。


 昼休みの理科室は、案の定、人気のない寂しさが漂っていた。


 心臓が忙しなく脈うつ、呼吸は乱れ、酸素を十分に取り込めない。緊張による苦しさを堪えながら、彼は座ったり立ったりを繰り返しながら、うろうろと彼女を待った。


 そしてついに、扉は開かれる。


「ごめんなさい、待ちましたか」


 扉の奥に立つ女子生徒、派手な髪色に、異国を思わせる瞳の色、日本人然とはしていないが、しかし顔立ちは確と血を受け継いでおり、目元は切れ長で、半ば閉じたような憂いげを含んでいる。そんな彼女の見目形に、男子生徒は一目ぼれをしていた。


「う、ううん、俺もいま来たところ」

「そうですか、安心しました」

「あ、扉は締めといてくれる?」


 部屋に入った小鳥遊は、男子生徒の指示通りにする。だがそれでも、閉め切った扉から距離を離すことはしなかった。密室と化した室内、男子生徒の他に気配はないが、警戒するに越したことは無いと。


「確か同じクラスの、垣内さん、でしたよね」

「あ、俺の事、知ってたんだ」

「それで私に、何の用でしょうか」」


 彼女に名前を呼ばれたことで、彼の緊張はさらに高まった。そして同時に、告白が成功する可能性も上がったと、心の中で昂る。


「あのさ、小鳥遊って、転校してきたばかりじゃん?」

「そうですね」

「けっこーカワイイって、噂になっててさ、それで俺も、そう思う訳よ」


 この時、小鳥遊は自らの警戒心が取り越し苦労で終わったことを確信した。そして安堵するとともに、ハキハキとしない男子生徒の回りくどい言い方に、苛立ちが募る。


「でさ、なんていうか、一目ぼれ、したっていうか、だからその、俺でよければ、付き合ってほしいなっ、て」


 言い切ったと、男子生徒の動悸は一層激しさをました。そして彼女の返事を待つ僅かな時間、強力な感染力を持つウイルスのように、今後の学校生活についての妄想が、彼の内にて蔓延る。


 小鳥遊を自分の物にせしめた優越感、友人から向けられる羨望の眼差し、小鳥遊との放課後デート、そして彼女の身体を、好きに出来る興奮————転入して間もない彼女が自分の名前を知っていたという、たったそれだけの事実が、彼の中で勝ちを確信させつつあった。


「ごめんなさい」

「…………え?」


 その答えが返ってくる可能性も捨ててはいなかった、しかし限りなくゼロに近いと考えていたため、その思わぬ返答に、彼は呆気にとられた。そして消えぬ妄想に囚われ、そのニヤけた面持ちのまま聞く。


「な、なんで?」

「私って転校生だし、垣内くんのことよく知らないから…………それに、気になる人がいるっていうか」


 気恥ずかしそうに、その表情を綻ばせる彼女。男子生徒は、それが自分に向けられたものではないことに気付く。想うがまま膨らませた妄想は、かくして風船のように破裂し、代わりに思い出されるのは、それまでの日常風景。


「誰、気になる人って」

「それは、言えないよ」


 小鳥遊が恋人になった訳ではないが、寝取られたような屈辱感が彼を襲う。


 自らが作り上げた妄想の中、彼女の隣に立っているのが自分ではなくなった事実に、まるで心臓が窮屈しているような不快感を覚えた男子生徒。ここで開き直り、強引な手法に切り替えることも考えたが、それを実行する豪胆は持ち合わせていなかった。


「そ、そっかあ、なんかゴメン」

「ううん、じゃあ、私もう行くね」


 時間が止まったような空気、それに耐えかねた小鳥遊がそう切り出すと、「おう」と、男子生徒も頷くことしか出来ず、そうして青春の一部始終は幕を降ろしたのであった。


「じゃあ、また明日なー」


 午後、ホームルームが終り放課後、フラれたショックを拭いきれない男子生徒は、なおも小鳥遊の背中を見続けていた。夏服に浮かび上がる下着の線に気付けば、彼女を自分のものにしたいという想いに強く駆られる。


 気づかれないよう、面はリュックの中に向けながら、視線だけで彼女を追う。


 ————気になる、気になる、誰だよ、好きな人って。


「そういえば小鳥遊さんって、どの部活に入るか決めたのー?」

「まだなんだよね」

「じゃあバスケ部来てよっ、身長高いし、絶対エースになれるから!」

「いや、絶対バレー部っしょ、っていうか前の学校は何やってたの?」

「アメリカの高校ではライフル撃ってたよ」

「マジで!?」

「うそだよ」


 背から感じる視線に気づきながらも、小鳥遊は席の近い女子生徒と談笑をしていた。そうして暫くした後、他の生徒が部活動の時間ということもあって会話は終了し、帰り支度を済ませた小鳥遊も、さっさと教室を出て行った。


 ————気になる、気になる、気になる、誰だよ、気になる人って。


 廊下を歩く小鳥遊の背後、少し距離を取って、彼は尾行を続けていた。そして彼女は、隣の教室へと入っていく。


 ————C組、まさか好きな人って、林山か?


 男子生徒は、2年生で一番のイケメンと噂高い、ハンドボール部の林山を思い浮かべる。それだけに妬ましさも沸き起こる。才色兼備の小鳥遊も、結局は顔で男を選ぶのかと。そうして覗き見たCクラスの教室で目の当たりにしたのは。


「夏休みが近いからって、浮かれるんじゃねーぞー、お前らも連休前に生徒指導のシロタ先生を見るのは嫌だろー? 俺だってあの人ニガテなんだからなあ、くれぐれも呼び出されるんじゃねえぞー」

「はいはい、先生サヨナラー」

「はいよー」


 C組の担任教師が、受け持ちの生徒たちに声掛けをする、ありふれた光景である。しかし人気があるのか、放課後だと言うのに、担任教師の周りには数人の生徒が立ち並んでいた。


「三鷹先生、この問題って分かりますか?」

「んー?」


 一人の女子生徒が差しだしてきたノートに目をやると、認められるのは数字や記号の羅列。男はため息を吐きながら答える。


「数学のことは小野寺先生に聞きなさい」

「えー、先生大卒でしょ、分かんないの?」

「先生は数字を見ると頭が痛くなるの、だから国語の先生なんだよ」

「ざっこー」

「やかましい、さっさと帰れ」


 そうやって、誰かを贔屓することなく、ひとりひとりに同様の態度をもって接するのが、定着した男のイメージであり、傍目から見れば、その人となりが人気のゆえんであると思われるだろう。しかし、男が一人になるのを隅で待つ小鳥遊は、本当の彼を知っているが故に、ひとり優越感に浸っていた。


 ————いいなあ、俺も三鷹のクラスになりたかった。


 隅で待つ小鳥遊を、さらに教室の外から眺めていた男子生徒も、Cクラスの生徒たちを羨ましく思っていた。しかしここであることに気付く。


 ————まさか気になる人って、三鷹?


 イケメン林山の線が、彼の中で薄れてゆく。あり得ないとは思いつつも、勝手に紐づけてしまうのだ、小鳥遊がC組の担任を好く理由を。誰に対しても裏表のない性格、もし教師の人気ランキングがあるのなら、自分も迷わず投票すると思えるくらい、非の打ちどころがない教師であるために。


 なおさら許せなかった。


 ————あんだけいい顔しといて、生徒に手ぇだすのかよ。


 小鳥遊とC組の担任、各々に抱いていた感情が、勝手な想像によって、ふつふつと煮えたぎる様な嫉妬心へと移り行く。


 一方、そんな男子生徒の想いを知るはずもない小鳥遊は、男を取り囲み、一向にはけない生徒たちに業を煮やしていた。————部活動は? 勉強は? 先生困ってるじゃん。


「あの先生」


 担任する生徒のものではない声に気付き、男と男を囲む生徒らがそちらへ視線を向ける。そこには、僅かに眉をひそめて、さらに口元を“への字”に曲げる女子生徒の姿。


「だれ?」

「アレだろ、転校してきたハーフの」

「あーね、何しに来たの」

「さあ」

 

 ひそひそと、善くない雰囲気を作り出す生徒たち。狭い校舎の中であって、縄張り意識も強いため、顔見知りでもない他所の生徒が来ることは、彼、彼女らにとってあまり望ましくはない————なお今回は相手が小鳥遊ということもあり、男子生徒は洩れなくそわそわしていた。


 そんな生徒らを他所に、男は変わらぬ態度で彼女に問う。


「小鳥遊か、お前D組だろ、何やってんだこんなところで」

「いや、あの、少しお話があって」

 

 その瞬間、男は理解した。間違いない、これは、NECOからの呼び出しだと。彼は覚えていた、たとえ就業中であっても、ひとたび要請が入れば応えなければならないルールを、さもないと失律者として粛清されることも。


「あのお、C組に何か用ですかあ?」

「いや、だから三鷹先生に御用が…………」

「あーッ、ハイハイ、思い出した思い出した、そう言えば弓道部に入りたいって言ってたよなあ?」


 女子生徒にダル絡みされ、小鳥遊の眉根がさらに深いシワを作り始めた折、男は声を大にしてフォローに入った。しかし彼女の思惑は他にあるため、心当たりのない言葉に首を傾げる。


「弓道部? そんなこと一言も…………」

「言ってたよねえッ? アメリカにはマシンガンしかないから、日本の武器に興味があるって!」


 これはノるやつだ、そう理解した小鳥遊は、それまでの態度を改めて、身振り手振りで取り繕う。


「そ、ソーなんですよ、ヒナワ銃から始まったAmericaと違って、石とこんボーで戦ったニポンの戦さを学びたクテ」


 拙いカタコトで言ってのけた小鳥遊は、自らのキャラクターから乖離した演技に頬を赤らめながら、引きつった笑みで周りの生徒たちの顔色を窺った。さすれば、男子はもとより、彼女を敵視していた女子生徒らも、そわそわし始める。


「え、え、ニポーンだって、可愛くない?」

「ね、なんかイメージと違ってビックリした」

「っていう訳だから、先生部活行ってくるな、お前らも遅れるなよ」


 副業がばれたら事なので、小鳥遊が口を滑らせる前にさっさと教室から追い出そうと、男は彼女の背中を押しながら、不格好な笑みを作って生徒らにそう促した。


「とりあえず、人目のない所へ行きましょう」


 そうして教室を後にしてからは、そう言って小鳥遊が彼を先導した。そして勿論、その背後には例の男子生徒。


 ————弓道場は反対側、こっちは屋上に続く階段しかないはず、まさかそこで。


 妖しい雰囲気を醸し出しながら階段を上ってゆく2人の背中、その姿が見えなくなるまで、彼は監視を続けた。諦めきれない彼女の真相を探るべく、どこまでも尾けていくつもりで。その追跡が小鳥遊に覚られていることなど露知らず。


「で、話ってなんだよ」


 階段を上り切り、屋上に出る扉の手前までたどり着くと、男は小鳥遊に問うた。しかし彼女は無言を保ったまま、視線だけを階段下に向けていた。だがそれもそのはずで、例の男子生徒が、しつこくも陰から聞き耳を立てているからであった。彼女の狙い通りに。


「先生、例の話について、考え直していただけましたか?」


 男子生徒にも聞こえる声量で切り出すと、続けざまに小鳥遊は声を抑え、「NECOのアレ」と補足を入れた。対して男は頭に疑問符を浮かべて答える。


「考え直すもなにも、土曜に承諾したはずだけど」


 その瞬間、小鳥遊の声色が妙に明るくなる。


「本当ですかっ? 何があろうと絶対に守ってみせますから、安心してください!」

「お、おう、頼んだ」


 その会話について、男子生徒はこう解釈した。

————告白の答えについて、再考したか。

————それなら土曜にOKしたはず。

————やった、両親が反対しても、私が守るのでご安心を。


 語弊のある会話ゆえに生まれた勘違い。しかし恋は盲目、男子生徒は自ら立てた仮説を妄信するに至った。


 ————もうそんなところまで話が進んでいたなんて。生徒と教師の恋愛なんて許されるはずがない。許さない、許さない、許さない、許さない、許さない。


 彼の思う小鳥遊とは、他を寄せ付けない雰囲気があり、常にもの淋しそうな不思議さを備えていた。そんな、めったなことでは表情を崩さない彼女が、果たして今、どんな顔をして男に臨んでいるのか、それを一目見ようと、彼は顔を覗かせた。そうして目の当たりにした光景は。


「お、おい」


 前触れもなく胸元に飛び込んできたと思えば、今度は背に腕を回してきた小鳥遊、その情緒の不安定さに、男は困惑を極めた。しかし不安定といえば、男はネコの話を思い出していた。両親を目の前で失ったが故の脆さ。


 ここで払いのけては彼女を傷付けてしまう恐れを加味し、男は小鳥遊の背中を優しく叩きながら「よ、よしよし」と子供をあやすように言葉を掛けた。


 そうして一部始終を目の当たりにした男子生徒の心は、彼女に抱いていた想いを諦めへと導く。否、男に対して抱く嫉妬心をより強いものへと増長させ、それをもって、小鳥遊への恋心を埋め尽くしているに過ぎない。


 ————あり得ない、下心があるに決まってる、そうに違いない、違いない、違いない。


 小鳥遊らの監視を止め、家路についた男子生徒は、愚劣にもその道すがら、国語の教師に対する恨みつらみをSNSに連投したのであった。


「行ったか」


 一方で、男子生徒の気配が無くなったことを確認した小鳥遊は、引き続きアツく抱擁をしながら、そう呟いた。


 彼女には、過去にも似たような経験があった。今回の一連も、例の彼がストーカーと化す前に鎮圧することを目的としており、それを優先に行動していたのである。果たして吉と出るか凶と出るか、それが分かるのは先になるが。そして男子生徒の撃退に成功した小鳥遊は、自ら陥った状況にハッとする。


「あ、あ、スイマセンっ、急に、びっくりしましたよね、あははー」


 彼女は抱き着いた男から離れると、耳にまで至る顔の紅潮を隠すように後ろを向き、目を白黒させた。そのおかげもあって勘付かれこそしなかったが、男からすれば、やはり心の面において不安定さを覚えることは否めない。


「で、落ち着いたか?」

「は、はい、お陰様で」————ああ、ぜったいお天気屋だと思われてる。


 そうやって心の中で落胆する小鳥遊だったが、しかし一度足を踏み入れたら止まらないのが恋路というもので、彼女はこの流れに乗じて、男に聞いてみた。


「そういえば…………こ、婚約の話って、どうなったんでしたっけ」

「こんやく?」


 男は少し考えた後、思い出す、彼女に結婚を申し込んだことを。しかしアレは勘違いということが分かってナシになったはず、なぜ今更その話を持ち出すのか、そう考えれば考えるほど、男には理解が出来なかった。


「あ、ああ、アレね、アレはホラ、誤解も解けたし、一旦なくなったんじゃ」

「あー、そう、だったんですね」


 男にそのつもりがない事に気付く。気分が波に乗ったまでは善かったが、その波はホレていたために、初心者の彼女はすぐにワイプアウトしてしまった。しかしここで折れないのが小鳥遊であり、彼女は目にぐっと力を入れて。


「あのキスが私の初めてだったんですけど、それじゃダメですか」

「何言ってんだ、世の中の人間、ファーストキスは大体両親と済ませてるだろ」

「それはノーカウントです」


 運命の淑女を待つ彼にとって、この状況を打開するのは些か難儀であった。相手が子供であるが故、断るにも言葉を選ぶ必要があり、とうとう男はしどろもどろに言い訳を始める。


「そうは言っても、歳の差ってものがあるし、世間体もな」

「私は気にしませんよ」


 ああ言えばこう言う小鳥遊に、ついに男は言うべき言葉を見つけられなくなってしまった。これまでトラブルを避けるように生きてきた人生、けれど彼女と出会ってしまったことで、もはやそれを免れることも敵わないと知る。


 そうして心を決めた男は、奥の手に出る。


「分かった」

「えっ」

「お前が大人になったら、結婚しような」


 それは幼い子供に対し、身も心も汚れた大人が使う小賢しい手法であった。“将来〇〇————ここに入るのは父母、親戚、先生など————と結婚する”と無邪気に言ってくる子供に対し、最適解ともいえる返答であろう。


 果たして17歳、ほとんど大人と言っても過言ではない年頃に通用するかは不明だが、しかし彼女は違った。男の受け答えに、彼女は視線を落としながら問う。


「ぐ、具体的に何歳頃ですか」

「そうだなあ、大学卒業して定職について、3年経ったくらいか」


 男は逃げる気でいた、というよりも、小鳥遊がその年を迎えるころには、そのほとぼりも冷めているだろうと踏んでのアンサー、すると少女は、ずいっと前に出て、その青い視線を見上げて言う。


「約束は、守ってくださいね」

「あ、ああ、男に二言は無い」


 危うき道ではあったが、場は凌げたと、男は心の内でしめしめと勝利の笑みを浮かべたのであった。


「そうと決まったら、呼び方はどうしましょうか、旦那様とか?」

「…………気が早うございませんか?」


 これまで見たことのない、屈託ない笑顔を男に見せながら、小鳥遊は小躍りをした。そしてここで、もう一つの重要な————むしろそれが本題でもある————事柄を、思い出したかのように繰り出す。


「そういえば今日、刑事の愛宕さんから連絡がありまして、重要な手掛かりを掴んだかもしれないから、ミーティングを開きたいそうです」

「超優先事項じゃねーか!」

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