ネコと少女と男とNECO
「ですから、先生に力を貸してほしいんです」
ひと悶着を終え、ようやく休日の朝らしさたるを取り戻した彼らは、トースト、目玉焼き、ベーコンなどが乗った皿を机に並べ、朝食を摂っている最中であった。しかし穏やかさとは少しかけ離れた雰囲気。
「んなこと言われても…………」
「昨夜、お前が失律した際に見せた異能、アレはウルトラレアだにゃ」
「人を当たりキャラみたいに言わないでくれる?」
ようやく落ち着きを取り戻したかと思えば、朝食の準備をするや否や、キラキラと輝かせた目を差し向けてくるネコと少女。それを向けられた男はと言えば、今は無き山本をタコ殴りにした記憶が最後であり、なぜ彼女らが自身に期待を寄せているのか、皆目見当もついていなかった。
男は3枚目のトーストをぺろりと完食し、そしてやけ酒を呷るように牛乳を飲み干すと、そんな少女らに言葉を返す。
「さっきも言ったけど、失律しただの、山本をニフラムしただの言われても、俺は何も覚えてないっての」
「にふらむ…………?」
聞き馴染みのない言葉に疑問符を浮かべる少女らはさて置いて、男は話を続ける。
「責任を取るとは言ったが、とにかく、昨日みたいな目に遭うのはもう御免だ!」
などと述べる男に対し、ネコと少女は顔を見合わせ、まだ説明するべきことが残っていたと、互いにヤレヤレと首を振った。なおネコは、男がひっかき傷を洗いに洗面所へと行っている間に、少女から総てを聞いていた。
「あの先生、私、確かに同じベッドで寝てましたが、間違いは起きてません」
「え?」
「お前の勘違いにゃ、よかったな」
その瞬間、男はけたたましく、喜びと安堵の雄叫びをあげた。
「セェェェェェェェェフ! さすがは俺、無意識でもその辺の分別はあったわけだ! やったぜチクショウ!」
嬉しさのあまりか、席を立ち、心の内を全身で表すかのようにシャドーボクシングを始めた男。しかしそんな彼に対し、面白くなさそうに頬杖を突いて、ため息を吐いたのは小鳥遊。
「嬉しそうですね、責任とやらが無くなって」
「ったりめえだろっ、責任から逃れられた大人を舐めんなよ、フウウウウウ!」
さて、男の勘違いも解消できたところで、逸れた話を本題に戻そうと、そろそろとネコは口を開く。
「それで、お前はワシらに協力する気はないと?」
「もちろんだッ、お前らといる理由も晴れて無くなったことだし、俺は家に帰らせてもらうぜ!」
するとネコは、「あーあー」と、分かりやすい嘆息と共に、何とも残念そうに言葉を洩らす。
「それじゃあ、ここで廃人になってもらうしかないにゃ。お前のことは気に入っとったが、しゃーないにゃ」
「…………え?」
「お前は覚えとらんくっても、ワシらはこの目で確認しとる。昨日の晩、お前が失律したこと、失律者を消し炭にしたこと。そんな奴を野放しには出来ないニャ、本当に残念ニャ」
ネコの言葉に一瞬ひるみはしたが、しかし生活を脅かされたとあっては男も黙ってはおらず、刑事ドラマに登場する小悪党のように、これには論う。
「は、はんっ、お前らに何の権利があるってんだよ。俺はこの通り正常だし、だだだ、第一、証拠がねえだろうが」
その言葉に、待ってましたと言わんばかり、さながら王手を指す将棋棋士のごとく、ネコはあるものを男に提示した。
「こ、これは!」
「ふっふっふ、あの変態教師のスマホだにゃん」
「いつの間にそんなものを…………裁判長!」
突然、男から視線を送られた少女は、狼狽えながらも「とりあえず、見てみましょうか」と、自身さえも知り得なかったネコの手癖の悪さは置いておき、スマホに保存された動画を再生することにした。
そうして映し出されるのは、無抵抗の山本を、無情にも塵芥へと変える三鷹の姿であった。想像もできない自分自身の隠された一面に、当人である男すらも絶句する。
「にゃ、これで言い逃れできないにゃ、お前にゃ」
「マジかよ、これ、生き別れた俺の双子の弟じゃねえか」
「嘘こけッ、苦し紛れすぎるやろ!」
ネコの言葉通り、言い訳のしようも出来なくなってしまった男は、ついに観念したのか、圧に負け、取調室で自白するかのように、深く背もたれにもたれかかって息をついた。
「分かったよ、負けたよ、もう一生アンタらに付いて行くよ、でも土日はシフト入れねーから、そこんとこ頼むな」
「バイトやないねんから…………それにまあ、いきなり実戦に出ろとは言わんから安心しろにゃ」
「ご親切に、教育実習でもやってくれんのかよ?」
「その通りだニャ。ま、黙ってついてこい」
則天去私さながらの生活、その全てを捨て去る覚悟で、固唾を呑んだ男はネコの後姿を辿って行った、当然ながら少女の同伴のもと。
果たして、彼女らの正体は何なのか、ただの個人で失律者を狩っているのか、または背後に巨大な組織が存在し、その指示のもと、彼女らは行動しているのか。何も分からないがために、様々な憶測が男の脳内で錯綜する中、それでも男は口をつぐんでネコらの後を付いていき、そしてついに、彼は辿り着いた。
「おい…………ここって」
男は目を見張った、どこぞの秘密基地にでも連行されるかと思いきや、ネコの尾を追いかけ到着したのは、少女の家の書斎だったからである。
「あははー、吃驚させんなよ、てっきり地下労働施設にでも連れていかれるかと思ったぜ」
壁一面を埋め尽くす本棚と、L字型の広々とした机には3台のモニターが置かれ、いかにも現代っ子らしい趣の、いわゆるゲーミングチェア、そして高価そうなデスクトップPCが机の下に格納されていた。なお書斎に置かれている目立った家具はそれくらいで————17の少女が勉強部屋にするには物々しいが————これと言って特徴は無い部屋であった。
故に男は安堵の息を吐いたのだが、ネコは淡々とPCを起動させながら、こう呟いた。
「まだ職員でもないお前を、本部には連れていけんじゃろ」
「ちょっと待て、なんだよ職員って、俺は既に立派な教職だっての」
「せやったにゃ、お前センコーやったにゃ、丁度いいにゃ」
「何がだよ、そもそも公務員は副業禁止だって」
「安心しろ、これも公務にゃ」
「答えになってねーよ」
やいのやいの五月蠅い男とネコは意に介さず、少女は慣れた手つきでマウスを操作し、PCの画面を忙しなく遷移させる。そして表示されたページでログインのアイコンをクリックすると、それもまたスムーズな手際でアクセスして見せた。
「ご苦労様です、小鳥遊です」
なにやら画面に向かって独り言を始める少女に男は声を掛けようとしたが、「シッ」とネコがそれを止めた。その間にも、少女のつぶやきは止まらない。
「はい、ええ、その報告はメールで連絡した通りです、いえ今日は別件で…………え、カメラですか…………」
少女が男の顔をチラリと見やる。果たしてどんな会話をしているのか、男が息を呑んで聞き耳を立てた瞬間、「先生、課長がお話されたいそうです」そういって少女は、入れ替わるように男を椅子に座らせると、ヘッドマイクを外し、音声モードをスピーカーに切り替えた。
「あーあー、もしもしー、聞こえますかー」
机の隅に設置された、一般的な350ml缶ほどの大きさはある黒塗りのスピーカーから、しわがれた男の声が漏れ出てきた。明らかに自分へ向けられた呼びかけであるため、男も、恐る恐る返答をする。
「あ、どうもー」
「お、聞こえる聞こえる、どうもー、山田と申しますー。ほおー、なかなかの好青年じゃない」
どうやらカメラを通じて、山田と名乗る男にはこちら側の様子が見えているようだが、しかし逆に、こちら側から認められるのは、人間を模した簡単なシルエットのみ。これでは男の不信感を煽るだけだと、少女は画面の向こうに声を投げる。
「課長、カメラついてませんよ」
「え、マジで、ごめんごめん、ちょっとタンマ」
その言葉の次に聞こえてくるのは、連続するマウスのクリック音。そして通話画面のチャット欄に打ち込まれる意味不明な文字の数々。男は察した、画面の向こうにいる奴は、機械音痴であると。
「なあ、大丈夫か、全然パソコン使いこなせてねえじゃん」
思わず画面を指さしながら男が小鳥遊に問うと、その言葉に返答したのは他の誰でもない、課長の山田であった。
「失敬な、部下のパソコンだから見慣れないレイアウトに苦労してるだけですー。おーい佐良くーん、カメラ付かないんだけどー、どうすればいいのかなー」
開き直ったのか、ついに課長と呼ばれる男は、ここで助け舟を呼んだ。すると次に聞こえてくるのは女の声。
「課長、前にも教えましたよねそれ、いいかげん覚えてくださいよ、そろそろ訴えますよ」
「えっ、何の罪で!?」
「部下の仕事を邪魔してる罪です、あとタバコ休憩が長いのと、私の父みたいな男臭についても」
「わ、分かったよ、謝るから許して、煙草も昼休みだけにするし、服もちゃんとリセッシュするから許してお願い」
「はいはい、それじゃあ私は仕事に戻りますね」
「ちょっと、カメラだけでも付けてお願い!」
「っち」
課長と女のやり取りについて、気まずい思いをしながらも耳を傾けていると、ようやく殺風景だった通話画面に、彩りが加えられた。斯くして映し出されたのは、涙目で俯く、40代くらいの男の姿であった。
「あ、あー! 画面映りましたよ!」
涙ぐむ中年男性に気を使ってか、男はそれまでの会話が聞こえていなかったかのように、他所へやっていた視線をモニターへ向け、あたかも、いま気づいたかのような風を醸し出す。すると課長の山田は、ハッとしたように涙を拭って淡い笑みを作った。
「あ、本当に? いやあ、最近のPCは使いづらくて仕方ないよねー」
「そうですよねー、流行り病のせいで何でもリモートになって、本当に世知辛いですよねえ、あははは」
やり辛い事この上ないと、男は内心そう思いながらも、痛めつけられ、ボロボロに綻んだ山田のハートを労わるため、先ずは軽く世間話でも挟もうと、そう試みた時だった。
「課長、雑談するなら他所でやってください、業務に障りますから。あと、通話相手のアホにも言っといてください、うるさいったらありゃしない、ったくもう」
画面外から怒号じみた女の声が飛び、そしてなぜか自分にも矛先が向いたことで、山田と同じく、男も意気消沈に至ったのであった。そうして満身創痍となった2人は、その傷も癒えぬうちに話を本題にもっていく。
「改めまして…………山田と申します、こう見えて課長をやってます」
「初めまして…………三鷹と申します、国語教師です」
顔も知らない女のキツイひとことに、涙を滲ませ項垂れる男、そんな小さくなった彼の背中を、小鳥遊は優しく撫でてやった。
「それで三鷹さん、君は失律したあと、正気を取り戻したと聞いたが、本当か?」
「ええまあ、ネコが言うには、そういうことらしいです」
男が答えると、山田の表情はみるみる明るさを取り戻し、さらに軽やかになった舌でこう続ける。
「そうかそうか、それは何とも喜ばしい、うちは設立されて歴史も長いが、万年人手不足でさあ、いやほんと、困ってたんだよ、だから君のことも、職員一同、歓迎するよ!」
課長の山田がそう言うと、モニターの隣で丸くなっていたネコが、「よかったニャ」と目配せをし、さらに男の背中をさすっていた小鳥遊が、「これからよろしくお願いします」などと言う。しかし彼女らの反応に、納得がいかないのは男。
「ちょっと待てください、全然お話についていけないんですけど!」
「あれ? 小鳥遊くんから聞いてない?」
「何を!」
すると課長の山田は、顔の前で両手の指を絡ませ、濃い影を面に落として呟く。
「いちど失律した君に残された選択肢、それは二つに一つだと」
「いや、それは聞いてますけど、転職するなんて聞いてないっすよ」
「いや、君はいつも通り、教鞭をとってもらって構わないさ————ただし! 付近に失律者が現れた際は、仕事中だろうと現場に行ってもらう」
「はあああああ?」
「納得できなければ、今ここで、不穏分子として消えてもらうことになるが、まあ、我々は君の意思を尊重するよ、今は弱者生存の世界だからね」
「ぜんぜん弱者生存じゃないんですけど…………」
「それで、返事は?」
うるうると目を輝かせながら男の返事を待つ、ネコおよび少女、ならびに課長の山田、またそれまで忙しなく聞こえていたタイピング音や、電話対応の声でさえもピタリと止んでいることから、他の職員も緊張していることが察せられる。
そんな、断ろうにも断れない————断ったところで処されるが————空気に圧された男は、苦々しい表情を浮かべて、彼らにとっての既定路線に乗ることを決断した
「分かりましたよ」
「ッしゃおらぁぁぁぁぁぁぁあ、人材確保おッ!」
男の返答に対し、課長の山田がガッツポーズを見せると同時に、沸きに沸き上がる歓声、それは主に画面の向こう側から聞こえてくる。「やりましたね課長!」や「これで港区は安泰ですよ!」など、家業の後継者が現れたかのような歓喜っぷり。
「これで今年の功労賞は港区のもんじゃい、ざまあみろ千代田区!」
まるで人が変わった様に、オフィスチェアをくるくると回す課長の山田と、彼ほどではないが、燥ぐそのほかの職員たち。そんな彼らの有様について、男は冷めた目で「これってオーバーフロー?」とネコに問うと、ネコもまた同様の面持ちで、首を振りながら答える「ただの馬鹿ニャ」。
「おっほん、それで三鷹くん、給与とか福利厚生とか、諸々の話は後で担当からするんだけど、早速お仕事が入ってるんだ」
「はい?」
「今しがた、情報分析部からエスカレーションを受けてね」
話が違うと、男はネコを睨むが、しかしネコは場都合が悪そうに、向けられる視線からさっと逃げ出した。それを見かねて助けに入ったのは小鳥遊。
「課長、三鷹先生はまだ制律が出来ておらず、現場対応は早いと思うのですが」
「そうだったの? それじゃあ今回は実習もかねた見学と言うことで、小鳥遊くん、頼んでいいかな」
当然、そうなるだろうと予測していた少女だったが、あまりにも予想通りすぎる受け答えだったため、小さく舌打ちと併せてタメ息を洩らし「承知しました」と二つ返事をした。そして時期を見計らったかのように響く着信音、それは少女のスマホから発せられたものである。
小鳥遊がスマホのメールフォルダを開くと、【Re: 西新橋3_感情波動異常を検知_点級】という件名のメールが1通、フォルダの一番上で未読マークを付けているのが目立った。
メールの内容はこうであった。
NECO港区即応班 各位
以下の事件について、警視庁より対応依頼がありました。現場への出動をお願いします。
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【概要】
1.発生場所:
西新橋3丁目、マンション(ザ・リュクス・グランドタワー西新橋)の一室(具体的な部屋番号は現場で要確認)。
2.発見内容:
女性1名が刺殺された状態で発見。遺体の状況から他殺と断定。
3.特記事項:
- 同様の手口で殺害された被害者が複数確認されており、警察は同一犯の可能性が高いと判断。
- 傷口はいずれも鋭利な刃物によるものに見えるが、犯行に使用された凶器は現場に残されておらず不明。
- 現場付近で感情波動の異常値を検知。これを受け、警察は失律者による事件と判断し、NECOに対応を依頼。
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【対応指示】
1.対応班:
NECO港区制圧課
2.危険度:
点級(現時点での推定)
※現場の状況によって危険度が変動する可能性あり
3.指令:
- 現場到着後、警察からの引き継ぎを受け、失律者の存在有無を確認。
- 被害者の傷口の特徴から、失律者が使用した可能性のある武器を調査。
4.連絡:
状況が変化した場合、直ちに本部(対策本部指揮課)へ報告。
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【追加情報】
•過去の類似事件:
同一手口での刺殺事件が過去に数件報告されているが、現場に凶器が残されていない点が共通している。
失律者が関与している場合、能力を利用して凶器を生成または隠匿している可能性あり。
•注意点:
現場近隣は住宅密集地であり、近隣住民への被害を最小限に抑える必要がある。感情波動の拡散に十分注意すること。
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本件に関する追加情報は、担当者から随時共有されます。速やかに対応を開始してください。
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NECO 失律者対策本部 現地対応指揮課
長ったらしいメールの本文を、署名まで一読した小鳥遊は、小さく眉をひそめ、丸メガネをかけ直した。そして未だ通話が繋がっているPCを構わずスリープ状態にし、ネコと、上の空である男に一言、「行きますよ」と声を掛け、自室を後にしたのであった。