ネコと少女と男の行き違い
「死んだ…………のか?」
「ちょっと突いてみるにゃ」
「お前がやれよ」
「ネコの手じゃ無理だニャ」
ネコの言葉に小鳥遊は舌を打ち、恐る恐る、寝息を立てる三鷹に人差し指を近づけた時「まて、直接触れるのは危険にゃ」と、ネコが注意を促した。「つっても、手ごろな物が」と小鳥遊はあたりを見渡す。そして見つけたのは。
「うえー、あんま触りたくないけど、これしかないか」
消えた体育教師が遺した、とある生徒のオーボエを手に取り、小鳥遊は三鷹の頬を、まるで犬の糞をつつくかのように刺激した。けれど反応は帰って来ず、また彼の肌に触れたオーボエも消えず、ただ気持ちよさげに眠る三鷹の姿に、二人は安堵の息を洩らした。
「よ、よー分らんが、ひとまず安心だにゃ」
「で、こいつどうする」
「どうするって、今のうちにとっちめるしかニャいやろ」
「それもアリだが、でもコイツ、最後の表情はいつも通りの腑抜け面だったろ」
「確かに。それに匂いもするにゃ…………てことは」
「ああ」
2人は顔を見合わせ、そして頷いた。
三鷹の可能性、そして、彼の持つ本性の使い道、どちらにせよ隔離、または24時間365日に亘る監視が必要なほどの危険度を持つ彼を、野放しにする気は毛頭なかった。
そうして小鳥遊らは、一向に覚醒しない三鷹を担ぎ、家路についた。なお、帰りはタクシーである。
*********
「んへあ!?」
土曜の朝、いつもより僅かに近い太陽の眩しさに、男は情けない声と共に起き上がった。
窓の外へと目を向ければ、立ち並ぶビル群の屋上が、どこまでも広がっている景色が入り込んでくる。しかし勝者にしか許されない風景にも、男は興味を示さず、きょろきょろと室内を見渡した。
ホテルの一室がごとく洗練された部屋、一人では持て余すほどのベッドが置いてあり、あとはテレビ、冷蔵庫、ティーテーブルに椅子など、一泊するだけであれば不自由しない、最低限の家具が認められる。
「なんだ、どこだここ、また酒でやらかしたか?」
頭痛、そして吐き気の症状、また、異常に乾く喉と、三日間なにも食べていなかった時の様な空腹にも見舞われたことから、男はそう理解した。とりあえずベッドから起き上がるべく、目をこすりながら、一晩中かけて温めた布団を押しのける。
「え」
視界の端に捉えた人影。嫌な予感というものに苛まれ、男が恐る恐る目を向けてみると、そこには、胎児のように丸くなって眠りこける少女の姿があった。
「キャアアアアアアアアアア!」
さながら幽霊でも見たかのように、男は悲鳴を上げながらベッドから転がり落ちる。
————おいおいおい、まさか未成年に手を出しちまったのか俺はァ!
これまでに自らが築き上げた社会的信用とキャリアの瓦解する音が、男の脳内で響き渡る。そして同時に、ショックで膝から崩れ落ちた。いつの日か現れるであろう運命の淑女のため、今日まで守り抜いた初めてを、酔った勢いで消費してしまったかもしれない現実に。
「お、おーい、小鳥遊くーん?」
シルクの生地で仕立てられたガウンで身を包む少女は、果たして寝相が悪いのか、シーツに抱き着くように寝ており、素足は投げ出され、あられも無い姿で気持ちよさそうに寝息を立てていた。情欲を煽る寝姿ではあるが、しかし男の目には、ただの可愛い子供の寝顔にしか見えていなかった。故に募るは罪悪感。
そうして第一声には反応を示さなかった少女に、男は再度、「朝ですよー」と声を掛ける。すると彼女は、窓側に向けていた顔を反対側へやり、小さく呟いた。
「んん、今日は土曜ですよ」
「そ、そうなんだけどね、ちょっと状況を整理したいから起きて欲しいと言うか」
「んー、いま起きます」
昨日の疲れが溜まっていた少女は、男の言葉には適当な返事をし、再び夢の中へ戻るつもりでいた。しかしここで、少女はまどろみの中で、違和感を覚えた。独り暮らしであるため、本来なら聞こえるはずのない男の声が、聞こえてくることに。
「ふあ!?」
少女は腕立ての要領で上半身を起こすと、部屋の隅々にまで目を配った。すると、窓に背を預け、青ざめた表情でこちらを見る男の姿が目に入った。
「せ、せせせ、先生ッ、何でここに!?」
「こっちのセリフだよ。それよりも、前、はだけてるぞ」
自身の胸元を指さし、ばつの悪そうな顔をする男の指摘に、ようやく少女は、自らがはしたない格好になっていることに気付く。そしてとっさにガウンで前を覆い、彼女は脳内を整理しはじめる。
事の顛末はこうだった。
今は無き山本との戦闘でオーバーフローを起こし、そして圧倒的な勝利を収めた男は、直後、正気を取り戻してそのまま気を失った。ネコとヤンキーモードの小鳥遊は、そんな男を担いでタクシーに乗り、帰宅。男を客室のベッドに寝かせると、小鳥遊もそのまま、男の布団にもぐり込み、夜を明かしたのだ。
そうやって、ビデオテープを巻き戻すように、少女は記憶をたどっていった。そして安堵した。いくらヤンキーモードだからと言って、男とは一線を越えていなかった事実に。けれども記憶を遡ったことで、併せて思い出される恥ずかしい記憶。
「ご、ごめんなさい、先生!」
「いや、こっちこそ御免なさいよ!?」
「いえ、昨日の私は、私じゃないと言うか、いや、あれが私なんですけど、兎に角っ、数々のご無礼、お詫び申し上げます!」
そう言って少女は、低反発のマットレスに頭を沈めた。しかし非はこちらにあると思っていた男は、少女に負けじと、フローリングの床に勢いよく頭を叩きつけた。
「滅相も無い! この責任は、私めのショボい人生を懸けて、必ず果たしますことを、ここに宣言します!」
「責任…………とは?」
少女が顔を上げて聞き返すと、男は尚も土下座を続けて言い放った。
「あなた様と籍を入れ、必ず、その人生の最期までを共にいたしまする!」
「それって、プロポーズってこと、ですか?」
「お、仰る通りでございます。今後とも、よろしくお願い申し上げ奉ります」
少女の心が、大きく揺れ動いた。
最初は何とも思っていなかった。だらしなくて、頼りのない大人、それが男の第一印象だった。しかし、今は無き山本との戦いで、男は少女を守るべく奮闘した。父を想わせる大きな背中、それが彼女の、最初の揺らぎであった。
小鳥遊ナガレハ、17歳。
西洋人形のような目鼻立ちで、大変可愛がられて育ってきた。また、アメリカ人である父親が格闘家だったこともあり、幼少のころから武術を学んでいた彼女は、顔に似合わず、男勝りの性格であった。
少女が中学生に上がったころ、彼女の家に数人の強盗が押し入った。月の無い真夜中のことであった。最初に殺害されたのが母親であった。少女は、父親が身を挺して守ってくれたおかげで、飼い猫と共に家から逃げ出せ、そして警察に保護されたのである。
その後、警察からの説明で、両親が刺殺されたことを知った少女は、そのとき初めて、オーバーフローを起こした。
昨夜の学校で垣間見た、父によく似た背中。
結婚するのであれば、そういう男性が善いと、思っていた。
その夢が、実現しようとしている。
「おいおいおいッ、にゃんだッ!」
失律者の匂いを嗅ぎ取ったネコが、部屋に飛び込んできた。安全な自宅だと思っていたが故に、突然あらわれた異様な匂いに、彼は駆けつけてきたのだ。しかし部屋中どこを見渡しても、室内には小鳥遊と男の2人のみ。
だが、意識を集中させてみると、匂いの元は、小鳥遊から発せられていたことに、ネコは気付く。
「小鳥遊、お前なにやってるにゃ!?」
「何だ、やべーのかコレッ?」
「オーバーフローを起こしてるにゃ、お前が何かしたんかワレ!」
「しました!」
「てめえガキこらッ、後で引きずり回したるからなッ!」
そう言ってネコは、床に散乱したセーラー服の中から、あるものを探し始める。「お前も手伝わんかい!」そうネコに怒鳴られた男も、「何を探せばいいんだよ!」と、四つん這いになって、ネコの元へ這い寄るが、それを邪魔したのは小鳥遊だった。
「先生、先生先生、好き、大大大大、大好き!」
「んんんん!」
小鳥遊は男に馬乗りになると、その顔を両手で包み込み、自らの唇を男の口元に重ねた。そのあまりに突然の出来事に、男も理解が追い付いていなかった————静寂が、室内を満たす。
だがそれも、長くは続かなかった。
「きあああああッ、俺のファーストキスがッ!」
「言っとる場合かッ! これを、さっさと小鳥遊に挿し込むニャ」
そう言ってネコが放ったのは、昨夜、小鳥遊が本性を解放するために使用していた、真鍮製の鍵だった。
男は床に転がったそれを拾い上げると、引き続き強引なキスを迫る小鳥遊を抑えながら、彼女の胸元に鍵を挿入した。すると直後、少女は男に覆いかぶさるようにして、気を失った。
「ハァ、何とか、収まったにゃ」
「おいネコ、今度と言う今度は、ちゃんと説明してもらうからな」
「それは朝飯の後にゃ」
脱力した少女の下敷きになった男は気にも留めず、ネコは大きな溜め息と共に、さっさと部屋を出て行ってしまう。
対する男も、少女を再びベッドに寝かせた後、朝から大変だったと言わんばかりに欠伸をし、リビングへと赴いたのであった。
「おい、牛乳を徳利に注いで、30秒レンチンしてくれニャ」
男がリビングへ行くと、昨日、3人で寿司を囲んだダイニングテーブルの上で、ネコが背伸びをしながらそう呟いたが、その注文には男の首が横に傾ぐ。
「猫舌だろ?」
「お前がふーふーすればいいにゃ。お猪口は2つでええか?」
「俺はいらないよ、ていうか何で徳利…………」
「ふん、つまらん奴め」
男はネコの指示に従って、眠い目をこすりながら徳利を探し出すと、冷蔵庫に入っていた牛乳を注ぎ、電子レンジに入れて“あたため”を開始する。また、自身はコップを水道水で満たし、それを持ったまま、ヨボヨボの年寄りの如く、深く椅子に腰かけた。
「なあ、小鳥遊は本性のコントロールが出来るって言ってたよな、今朝のアレはどう説明するつもりだ」
彼女の失態を見せてしまったからには、説明しない訳にもいかなくなったネコは、意を決したかのように、言葉を始める。
「彼女はな、両親を目の前で殺されたんや。つい五年前のことにゃ。今でこそ制律できとるが、まだまだ不安定なとこがあんねん」
チン、とレンジが温め完了を知らせた。男は取り出した熱々の徳利を傾け、あらかじめネコの前に置いていたお猪口に、ホットミルクを注ぎながら静かに呟く。
「そうだったのか、気の毒にな。それで、俺のせいでオーバーフローしちまったって訳か」
「まあそれだけ、お前の存在が、あの子の中で大きいものになったってことにゃ」
お猪口に息を吹きかけ、白い水面に静かな波を立たせながら、ネコは言葉を続ける。
「なあ小僧、お前、小鳥遊の傍におってやってくれんか」
「もちろん、責任は取るつもりだ」
「責任?」
男は、戸棚から取って来たもう一つのお猪口にミルクを注ぎ、それを喉の奥へと流し込む。まるで契りの盃とでも言わんばかりに。
「だから安心しな、お義父さん」
「だれがお義父さんだ。お前、なんか勘違いしとらんかにゃ?」
「え?」
すれ違う二人の会話に、沈黙が産声をあげる。そしてしばらく見つめ合ったあと、ネコが最初に口を開く。
「そういえばお前、今朝、小鳥遊と同じ部屋におったよな」
「おったな」
「つまりそれって」
「記憶は無いんだけどな、多分、やっちまった」
「…………」
再びネコと男の間を、気まずそうに沈黙が横切る。だがその静寂は、先ほどのとは打って変わり、どこか空気が震えるほどの激情に満ち始めており、それは給油される燃料タンクのように、瞬く間に満杯になる。
「このド畜生がッ、恩を仇で返したなッ!!」
「はぁぁぁ!? 人を散々な目に遭わせといて、どの口で言ってんだ毛玉野郎ッ!」
「貴様ぁぁぁあ、必ずこの手でとっちめてやる!」
「っは、その短えネコの手でか? やってみろ!」
「殺すッ!」
「来いッ!」
そうしてネコと男の取っ組み合いが始まった。
互いに、大切なものを奪われたと勘違いを起こしており、故にその戦いは熾烈を極める。ネコは男の顔面に猫パンチを繰り出し、対する男はネコの頬をつねる。果たして互角、その決着は中々つかないとも思われたが、ここで声が飛び入る。
「ちょっと、何やってるんですか二人とも!」
土曜の朝とは思えない賑やかさに目を覚ました少女が、その騒ぎを聞きつけて駆けてきたのである。しかし2人の喧嘩は、少女の登場もお構いなし。
「フーッ、フーッ、ころす、絶対ころすニャ!」
「返せぇぇ、俺の初めてを、返せぇぇ!」
嚙み合わない会話から始まった戦いは、次第に勢いを失っていき、ネコも男もへろへろであるが、それでも負けられないため、どちらも退くことはしなかった。
そうやって意固地になる2人の姿に、言っても無駄だと、少女はむっと下唇を突き出し、その場にしゃがみ込んで静観を決め込んだ。
「食らえ必殺!」
「ああああああああッ!」
泥沼と化した勝負が、ここでようやく決した。決定打となったのは、剥きだした爪で、ネコが男の頬を引っ搔いたことだった。
「爪は反則だろ!」
「能ある鷹は爪を隠すものにゃ」
「出してんじゃん! つーかお前、ちゃんとワクチン打ってんだろうな!」
「さあ、どうだったかにゃあ、お注射は嫌いにゃあ」
ぞっとしないネコの言葉に青ざめ、男は悲鳴をあげながら洗面所へと駆けて行った。
そんな男の後ろ姿を見送ると、やれやれとネコはため息を吐く————すると笑い声。
「仲いいね」
僅かに滲み出た笑い涙をぬぐいながら、少女がネコにそう言った。しかしネコは、その言葉に返事をせず、ただ目を丸くさせるばかりであった。いつぶりか、久しぶりに見えた、少女の綻ぶ顔に、涙がにじむ。
「き、嫌いじゃ、あんな奴」
ネコは毛づくろいをするフリをして誤魔化す。
男が来るまでは、毎日が夜中のようであった。外では人目があるため喋ることは出来ず、しかし家に帰っても、少女とネコの間には、最小限の会話しかなかった。まるで時間が静止したかのような世界が、変わり始めたのは、あの男との出会い。
ネコ、名前はある、8歳。
上品な皮毛に、愛着のあるつぶれた顔をしたペルシャ猫は、非常に人気があり、猫の王とも言われているため、ブリーダーも進んでこの種を繁殖させる————彼が産声をあげたのは、糞尿にまみれたケージの中であった。
ブリーダーは逃げ出しており、彼の生まれた家は、既に飼育崩壊していた。母親から与えられるミルクは少なく、兄妹たちは次々と死んでいったことを、彼はまだ覚えている。
自慢の白い体毛は茶色く汚れ、それでも母親は、甲斐甲斐しく毛づくろいをしてくれたことも、彼は覚えている。
そして愛すべき母親から引き離した、人間と言う存在、それがどんなに憎かったかも、覚えている。だがその人間が、自分を含め、死にかけていた兄妹たちを、地獄から救い上げてくれたことも覚えている。
人間という存在が、彼の中で曖昧なものとなった。
ある日、里親になると言う人間が現れた。髪は金ピカで、瞳が空の色をした、珍しい見た目の人間だった。子猫だった彼を小さな手で抱え上げ、満面の笑みで笑いかけてくれた。
そうして子猫は、新しい家で暮らし始めた。そこで与えられたものは、あまりにも多すぎた。家族、寝床、食事、名前。彼はそのとき、人間という存在を、心から愛するようになった。
しかし、幸せも長くは続かなかった。
笑いかけてもらえず、名前を呼ばれることも少なくなり、いつ、自分は捨てられるのか、いつまた、あの地獄へ戻るのか、その不安だけが、彼の中で渦巻いていた。
もっと、笑ってほしい、もっと、名前を呼んでほしい、もっと、傍に居たい。
「ご飯にしよっか、ビー玉」
にっと歯を零し、その名を呟く少女に、まん丸の猫の目からは、自然と涙があふれた————忘れていた訳じゃないにゃ。
「あれ、どうしたの?」
普段なら、ご飯という言葉には強く反応を示す筈が、今日はやけに大人しいネコに、少女は首を傾げた。そんな少女に泣き面を見せまいと、ネコは再び顔をこする。
「あの野郎、手加減ってものを知らないのかにゃ」
「ふふ、派手に喧嘩してたね」
「まあ、ワシが勝ったけどニャ」
「あとで仲直りするんだよ」
「っけ、だーれがあんな奴と」
久方ぶりに訪れた、気の休まる土曜の朝、足りないものは多すぎるけれど、それでもネコと少女は、まるで失われたものを取り返すように、或いはアルバムをめくるかのように、そうやって笑みを交わしたのであった。