ネコと少女と男の虚無
「人の人生を、自分の物にするあの快感は、今でも忘れられないジュポねえ。本当なら今頃、もっとたくさんの子供を指導する筈だったのに、世間は、やれパワハラだの、やれセクハラだの、生きづらい世の中になってしまったジュポ」
体育教師の山本は、ポケットからスマホを取り出す。続いて異能の力を使用し、何か言葉を吐きかけた小鳥遊の口にロープの忍ばせ、こじ開けたまま、上あごと下あごを固定させた。
「でも、SNSの普及も悪い事ばかりじゃないジュポ。今からお前を辱め、その動画をネットにばらまくジュポ。それが嫌なら、今後は俺のルールに従うジュポ」
体育教師の山本は、下のジャージを脱ぎ捨てると、その純白のブリーフパンツを露わにさせた。そして動画を回しながら、オーボエを片手に小鳥遊の元へとゆっくり近づいていった。次第に距離が詰まっていく中、拒否反応を示すのは山本を悦ばせるだけだと、小鳥遊は目を閉じて、その時が来るのをただ待った。
そうして、匂いが感じ取れるほど、ソレが鼻先にまで迫った時。
「竜巻旋風拳!!!!」
ネコを連れ、無事に逃げおおせたと思っていたはずの男が突如現れ、体育教師の山本の顔面に裏拳を叩きつけたのである。威力云々は別として、意表を突く登場と攻撃に、体育教師の山本は大きく仰け反る。
「見損なったぞ、この変態がッ、同じ熟女好きとして、友達になれそうだと思ったのに!」
「うるせえ、誰が何と言おうと、俺は子供が好きだジュポ、もう、それを隠すことはしないジュポ!」
「…………んだとおっ」
格闘技の経験が無い素人とは言え、助走をつけたことによってスピードが乗り、そして奇跡的にクリーンヒットしたことで、彼の裏拳は、尋常であれば大ダメージを負わせるに至る威力を含んでいた。
しかし本性の発露によってエネルギッシュになった山本の身体には、大した痛手とはならなかったのである。
「お前の人生も、掌握してやるジュポ」
「やってみろ」
体育教師の山本と睨み合いが続く中、何とか隙を作ろうと男は思考を巡らせる。そうして思い至った作戦は。
「今だ、やれクソネコ!」
重ねていた視線を外し、山本の背後を見やると、男は合図を送るようにそう叫んだ。背からの奇襲を警戒した体育教師の山本は、とっさに振り返る、が、その目に映るのは、窓一杯に満たされた夜の闇。
「かかったなマヌケ!」
男はあたかもそこに誰かがいるかのように、虚空に向かって合図を出していた。しかしその咄嗟の演技が功を奏し、体育教師の山本は背後の幻影に気を取られたのである。そして、その隙を突き、男が再び顔面に拳を放つ。
「オラァッ、体育教師の偉丈夫はそんなもんかあ!?」
鼻を抑え、ひるむ山本、そのチャンスを逃すまいと、男がグーパンチのラッシュを叩き込む。下あご、みぞおち、横っ腹など、ネットで得た知識を活用し、的確に急所を突いて行く。
「これは小鳥遊の分、これはオーボエの生徒の分、これはそのオーボエの分!」
「あぐぁ、ほごぉ、ぶげぇ!」
「これはテメエの汚えケツに座られたイスの分、そしてえっと、これが、物価高に疲れ果てた国民の分だァァァァア!」
「ぐぎゃあぁぁぁぁ!」
魂を込めた最後の一撃は、体育教師の山本のアゴを、下から突き上げた。それによって揺らぐ意識、また数々の鉄拳をボディに食らったことで、遅れてやってくる鈍い痛み。どれも、山本を再起不能に陥らせるには十分であった————が。
「嘘だろ……あんだけ喰らって……倒れねえのかよ」
息も絶え絶え、男は膝に手をついて呼吸を整えながら、依然として両の脚で確かに立っている山本の姿に、絶望の汗を浮かべた。
「文系の教師だと舐めてたが、いいモン持ってんじゃあねえか、見直したジュポよ」
「今のアンタに褒められても、嬉しくねーな、ええ?」
「俺をここまで追い詰めた褒美として、お前は後回しにしてやるジュポ」
体育教師の山本は、本性の発露によって得たエネルギーでロープを生成し、小鳥遊にしてみせたように、今度は男の四肢をそれで縛り上げた。これで人間芋虫の完成である。
もぞもぞと床でうねることしか出来ない男の滑稽さに鼻をならした山本は、再び動画を回しながら、彼女へと歩み寄る。
「さて、転校生の小鳥遊、まずはお前からジュポ、目線はしっかりカメラを見るジュポよ」
「やめろ、生徒に近づくな、このドグサレが!」
「はっはっは、お前はそこで指くわえて見てな」
ここで男は、体育教師の山本に忍び寄る、一つの影を視界に捉えた。月光に照らされ浮かび上がる雪色、校舎の外に置いてきたはずのネコが、窓から侵入してきたのだ。
「ばか、来るんじゃねえって言ったろ!」
山本は、窓の方へ視線を向けて叫ぶ男を嘲笑した。
「2度も同じ手を食らうか、阿呆が!」
そう言って高をくくる山本、しかし今度の奇襲は幻などではなく、確かなる爪と牙を持った、小さな猛獣によって仕掛けられることを、今の油断した山本では気付き得ない。
さながら枯草の茂みに隠れたヒョウのように、姿勢を低く保って忍び寄るネコ。そしてきたるタイミングを見計らい、突き上げた尻を振って————飛び出した。
「うおあ、なんだ、クソ!」
まるでSFホラー映画に登場する小さなクリーチャーのように、山本の顔面に飛び掛かったネコは、鋭い爪を食い込ませ、暴れる山本から引きはがされないように、且つ、ひっかき攻撃をも並行して行い続ける。
「痛ででで、痛い痛い痛い、痛いジュポ!」
「今や小僧、小鳥遊の拘束を解くんニャ!」
「馬鹿、俺も縛られてんだよ!」
「ニャにぃぃぃ!?」
衝撃の事実————想像に易い状況ではあったが————にネコの攻撃が緩む。そして体育教師の山本は、その隙を見逃さず、張り付くネコを顔面から引きはがすと、彼を壁に叩きつけ、そのままロープで縛り上げた。
「ネコ!」
「にゃあ…………くっそお」
ミイラ取りがミイラになったという訳でもないが、こうして一行は、全員が山本の支配下に置かれることとなった。絶体絶命、彼らはもう、小鳥遊が辱められるのを、無力にも見守ることしか出来なくなったのだ。
「ったく、次から次へと、どれだけ俺の邪魔をすれば気が済むジュポか。まあいい、この鬱憤は、お前らで晴らすことにするジュポ、覚悟しろジュポよコラァ!」
度重なる連戦、その全てを勝利で収めたことで、山本のテンションは絶頂に達していた。そのタガが外れた欲求を最初にぶつけられるのは、最初から変わらず小鳥遊であり、これから彼女がどれだけ悲惨な目に遭うのかは、男とネコも容易に想像できたことであろう。
「先ずは俺のぶっといモノを喉の奥までねじ込んでやるジュポ、そのあと、コイツをどこにぶち込むかは、女なら分かってるよなあ?」
息を荒くした山本が、自慢げに披露したメニュー、その言葉によって、勝手に脳内で繰り広げられる惨劇が、彼のトラウマを呼び起こした。
国語教師の三鷹、28歳
幼少の頃、■■■を■■■し、■■■の元で生活を始める。日常的に行われる■■■によって、彼の■■■は■■■した。ある日、彼は■■■を■■■し、それが明るみとなって■■■、■■■での生活がはじまる。斯くしてそこを退院したのち、大学生となった彼は、卒業後、自動車メーカに務める。しかし僅か1年で離職し、国語の教師となって現在に至る。
三鷹の深淵に満たされた心は、次第に彼の人格をも飲み込んでしまった。根幹の無い空虚なクリスマスツリー、偽りのアイデンティティのみを形成し、今日まで生きてきた彼は、自身の本性を知らぬままでいた。否、彼の本性はとっくに、深層へと沈んでいる。
「あ? おい、テメエ、どうやって俺の拘束から逃れたジュポ!」
いつの間にか、三鷹の手足を縛っていたロープが消えており、そして気づけば、山本の背後に立っていた彼の姿。そして、彼が放つその異様なオーラに、山本はついに汗を浮かべた。だがそれは、他の者も同様で。
「オーバーフローしやがったにゃッ、くそ、こんな時に!」
感情豊かだったはずが、まるで人が変わったように無の形相へと変化した三鷹。小鳥遊がヤンキーモードへ移行した時の様な変貌っぷりに、ネコは、三鷹が感情の濁流を起こし、失律したものと判断した。
「けど、なんや、匂いが、全くせえへん」
焦燥に満たされたネコの表情が、落ち着きを見せ始め、同時に、ネコはそれを不気味がった。オーバーフローを起こし、己の本性をむき出しにした失律者は、理性と引き換えに莫大なエネルギーを得る。ネコはそのエネルギーの独特な匂いを感じ取ることが出来るのだが、三鷹からは、それが薫ってこないのである。
「コイツ、ホンマに人間か、昆虫でさえ、もっと匂ってくるにゃ…………」
総てを飲み込むかのごとし暗黒を瞳に宿した三鷹、その尋常ならざる様相に中てられ、体育教師の山本は恐怖を覚えた。そしてその心に背を押され、駆け出した。目前にした頂点捕食者に、一矢報いようとする格下の捕食者の如し。
「ジュ、ジュポポポォッ、お前は、お前は、生きててはダメな人間ジュポ!」
足のつま先から旋毛まで、一杯に満たされたエネルギー、恐怖に慄いた山本は、その総てを拳に乗せ、それを三鷹に目がけて解き放った。その瞬間、虚ろな三鷹が片手を挙げ、勢いづいた山本のパンチを受け止めた。
「なにぃ!?」
それまの人生で、一度も止められることのなかった自慢のストレートが、軽々と、しかも国語の教師に防がれたと言う事実は、恐怖に慄いた山本の矜持を打ち砕くには十分であった。しかし彼は、この後、もっと遥かに恐ろしい事実に直面することとなる。
「…………はえ?」
違和感、それが、恐怖に慄いた山本の視線を、自ずと三鷹から自身の腕へと移動させた。
ぶらんと垂れ下がるジャージの袖、山本はそれを、もう片方の手でつかむと、本来はそこにあるはずの感覚を探した。しかし無い、どれだけ袖をまさぐっても、感じるのは生地の感触のみであり、32年間ともに過ごしてきたはずの腕が、無いのである。
「ない、ないないないッ、ぐおれ、俺の腕が、無いぃぃぃぃ!?」
吹き飛ばされた訳でもなく、切り落とされた訳でもない。もっと恐怖に慄く山本の腕は、まるで置手紙も無く出て行った妻子のように、まるで、生まれた時から存在していなかったかのように、ぽつりと消え去ってしまったのだ。
「かえせえ、かえせぇぇぇ、俺の腕えええええ!」
考えられる原因は一つ、それが虚ろな三鷹の仕業であることは、明々白々である。その事実に、もっと恐怖に慄いた山本は、唯一残った右腕で拳を作ると、萎縮しつつある本性の残りをフルに使って、それを虚ろな三鷹の顔面に打ち込んだ。
「ヒャッハー! 当ててやったぜぇ! この感触…………は?」
渾身の右フックを振り抜いた山本は、その時気付いた。三鷹の左頬にヒットしたと思っていた拳が、無くなっていることに。
「俺の手が…………右手も無くなっちまった! チクショウ、どんな手品を使いやがったァ!」
混乱を極める山本だったが、しかしネコと小鳥遊は、彼の両腕の顛末を、確と見ていた。
山本の拳が三鷹の頬に触れた瞬間、まるで免疫細胞が、体内に侵入してきたウイルスを食べるかのように、三鷹の皮膚に触れた部分から消滅していったのである。
「本性の発露に伴い発現する異能、それは本性に強く由来するものにゃ。一体にゃんなんだ、あいつの本性は!」
「アタシが思うに、奴の本性は空っぽ、虚無だ」
「小鳥遊、お前、ロープが解けたのか!」
体育教師の山本が意識を三鷹へと集中させたことで、拘束力が弱まり、その隙に乗じて、山本の拘束から逃れていた小鳥遊は、ネコを縛るロープをほどきながら、しかし視線は三鷹のほうへやったまま、自らの考察を話して見せた。
「恐らく、あらゆる物に価値を見出せない虚無感が、そのまま異能となって体育教師の腕を消し去ったんだろう」
「ニャンちゅう本性や、下手したら…………」
「ああ、地球そのものを消し飛ばすかもな」
そして小鳥遊とネコは、失律した三鷹が山本との戦いに勝利した後、次に彼と戦うことになるのは自分たちであると理解し、訪れるその時に備えた。
一方で、三鷹と山本の失律者同士の対決は、既に決着が着いたと言っても過言ではなく、両腕が消えてしまった山本は戦意を喪失し、もはや廃人同然となっていた。それはまさしく、三鷹の勝利と言う意味であるが、それでも三鷹は、止まらなかった。
「俺の、支配、俺がルール、ルールすなわち、それ支配なり、俺が…………」
膝を着き、項垂れ、独り言のように、虚ろな表情で言葉を零し続ける廃人の山本。三鷹はそんな彼の頭部に手をかざし、そうして、彼の存在自体を、この世から消し去った。
その戦いを目の当たりにした者たち以外の人々の記憶から、体育教師としての、また暴君としての山本の記憶がすっぽりと抜け落ちる。山本が写った写真からは被写体が消え、学校の名簿や戸籍謄本、デジタルの中に保存されたデータすらも、文字通り消去されたのである。
しかし過去は変わらない。山本という存在は無に帰したが、彼がそれまで他者に与えた影響は消えず、善であろうと悪であろうと、山本が実行した事実は残り、けれど誰に何をされたかという部分は、思い出せない誰かとして、あいまいに、人々の記憶に残り続けるのである。
「来るぞアホネコ、次はアタシらの番だ」
「あかん、ここは逃げるで、アイツには勝てんにゃ」
「ダメだ、奴の階級は、甘く見積もっても国級、最悪、壊級もありえる」
「買いかぶりすぎニャ、お前も見とったやろ、奴は触れたものを消し去る、地面に触れたからって、日本が無うなるとは限らんにゃ」
「消し去る範囲を調整できるかもしれんだろ、あーもう、グダグダ話してる場合じゃない、来るぞ!」
ゆらゆらと、2人に歩み寄る失律者の三鷹、月明りに照らされて尚も瞳は暗く、差し伸べられた手の平は、まるで総てを飲み込む深淵の渦にも見えた。
小鳥遊とネコは息を呑んだ。触れられたら消えるのか、それとも触れなくとも消せるのか、そしてその範囲はどれだけに及ぶのか。得体の知れないロウレスを前にして、ただ、立ちすくむことしか出来ないのである。
「腹…………減った」
けれど三鷹は、その言葉を最後に呟いて、白目を剥き、一本の棒になったかのように、顔面から床に倒れ込んでしまった。