ネコと少女と男の晩餐
「それで、そろそろ説明の方を…………」
放課後の学校から逃げるように退散した二人と一匹は、下校中の学生がちらほらと見える電車に揺られ、とある場所————男の教師は知らない場所————に向かっていた。真っ黒いビジネスリュックから顔をのぞかせるネコのせいで、衆目にさらされながら。そんな状況に気まずくなった男が、ついに開いた一言目がそれだった。
「…………」
しかし返ってくるのは沈黙。アレだけ人間の言葉が五月蠅かったネコはもちろんのこと、肩までの長さはある金髪を後ろで結った女子生徒さえも、男に目線を合わせようとはしなかった。それを見かねた男は、ぼそりと呟く。
「おい、このまま何の説明もしない気なら、ぐずるぞ」
それでも窓の外に視線を放ったまま、話す気を起こさない女子生徒。そんな彼女たちに、男はさらに追撃を行う。
「考えてみろ、大の男が、電車の中で、死にかけた蝉みたいに仰向けになって、イヤイヤ期の子供みたいに喚く姿を。そして、そんな大人と一緒にいる君は、明日には学校中の噂になってるんだ」
脅しなのか、それとも本当に最終手段に出ようとしているのか、それは女子生徒にも猫にも分かりかねることではあるが、そうすることで一番に大切なものを失うのは、立派な社会人としてキャリアを積んできた男の方であることには、提案した男ですら気付いていなかった。
「ああそう、そういう態度をとっちゃうのね。よし分かった、じゃあぐずるぞ、本当にぐずっちまうからな、小便だって撒き散らしてやるさ」
——次は、虎ノ門ヒルズです、銀座線は、お乗り換えです。
総てを捨て去る覚悟と凄みをにじみ出していた男が、そろそろと動き出した時、タイミングのいいことに、電車のアナウンスが車内に澄み渡った。そして英語のアナウンスも終り、数十秒したあと、「お出口は、左側です」と機械音声の案内と共に、電車がモーター音をくぐもらせた。
「ここで降りますよ」
目的の駅に到着し、女子高生が男に促した。そして慣れた風に、さっさと電車から降りてしまう彼女。
——と、虎ノ門ヒルズゥ? なんでガキがこんな駅で降りるんだよ。
乗車口の側で待つスーツ姿のサラリーマンたちの目線に気付き、男もハッとしたように少女の後をついて電車を降りる。なお彼の自宅は勤め先の近くであるため、普段から公共交通機関は使用せず、端から見ても電車に慣れていないことは瞭然であった。
無言のまま、スマホをかざして颯爽と改札をクリアする少女とは反対に、男は慣れた感じを装ってはいたが、機械に飲み込ませた切符が出てこないことを思い出したかのように手を引っ込め、改札を出たあとは、きょろきょろと小綺麗な構内に緊張を見せていた。
駅を出てからも、あり得ないとは思いつつも、少女の後ろを追従していけば、どんどんと近づいてくる超高層ビル。スーツまたはオフィスカジュアルなどの服装に身を包んだ人々が行き交う中、ついに女子生徒は、一つのビルの中へと足を踏み入れた。
「タワマンじゃないっすかぁ」
電車から降りた後も、猫が入ったリュックを腹に抱えていた男、首を後ろへと倒し、ビルの天辺までを見ようにもかなわない高さに圧倒されながらも、置いてきぼりを食らわないよう、子ガモのように彼女を追いかけて行く。
「凄いところに住んでるんだねえ、ぶっちゃけ家賃いくらなの」
「野暮ですよ先生」
美術館のような内装のロビーを抜け、一行はエレベータに乗り込む。そうしてたどり着いたのは、上から数えた方が早いくらいの上層階だった。少し贅沢をして泊まるホテルの様な廊下、都会の喧騒をまったく寄せ付けない空間に響くのは、二人の足音だけ。
「ここがあたしの家です、どうぞゆっくりしてください」
少女に案内されて入った部屋、玄関を上がり進んでゆくと、一番に認められたのは、夕暮れ差し込む広々とした居室であった。まるで外国を想わせるような洗練されたデザイン、一人では持て余すだろうキッチンに、ダイニングテーブル、巨大なスクリーン、コの字型のソファ。細部まで非の打ちどころがない、まさに完璧であった。
「あー、やっと喋れるにゃあ」
リュックサックのファスナーをこじ開けて飛び出すと、猫は乱れた体毛を舌で整えながら一息つくようにそう言った。そして魚の水を得たるが如し、のびのびと背伸びをし、窓辺にて日光浴を始めた。
「狭いリュックで悪かったな」
「消臭くらいはしとけな、お前にゃ」
「ああ、帰ったらすぐにやるよ、獣くせえからな」
「にゃんだとこのガキ!」
「あ? やんのかこのクソネコ!」
人目が無くなればすぐに喧嘩を始めようとする男とネコ。そうして今にも血で血を洗う諍いが始まろうとした時、見かねた少女が声をあげた。
「ちょっと、そんなことしてる場合じゃないですよ!」
少女の一言によって、一人と一匹は気を静めた。そして同時に、男は思い出したかのように口を開いた。
「そうだよ、学校のアレは一体何だったんだよ、いいかげん説明してくれ!」
目の前でミンチにされた男子生徒、映画に出てくる怪物の様な姿になった秋山、そしてその化け物を、たったの一撃で沈めてしまった少女。忘れていたわけではない、ここまで悶々と抑え込んでいた感情を、男は、ここぞとばかりに発散させた。そんな男の有様を見た少女とネコは、互いに視線を交わして頷き合った。
「あれは、ロウレスとなった人間です」
「はい?」
「人には人のアイデンティティがあることは知っていますよね」
「乳酸菌があるのは聞いたことあるけど、すまん、日本語で分かりやすく説明してくれる?」
「…………お前それでも教師かニャア」
「うるせー、こっちは国語の教師だっての!」
長くなりそうだと、少女とネコはため息を吐いた。そして骨を折る覚悟で、「いいですか」と少女は説明を始めようとするが————ぐるるると、ここで誰かが腹の虫を鳴かせた。ここで僅かながらに沈黙が流れたのは言うまでもない。相手の出方をうかがう様な空気感がただようなか、頬をほんのり赤らめた少女が先陣を切る。
「お話の続きは、ご飯を食べながらにしましょう」
「だにゃ」
「お、ナイスアイデア、では俺が、何か作ってやろう」
そうして男は、ズカズカとキッチンの方へ踏み込んでいき、業務用かと見間違えるほど大きい冷蔵庫の取手に手を掛けた。「ちょちょちょ!」と少女は慌てて男を追うも、時は遅く、男は観音開きの冷蔵庫をためらいもなく全開にした。
「おろ、なんもねー」
家電量販店に並ぶ展示用の物かのように、すこし青みがかったライトで照らされる白色の冷蔵室は、プラスチックの無機質な匂いだけが微かに香る。そんながらんどうに男が視線を漂わせていると、バタンと勢いよく扉が閉じられた。
「ひ、人ん家の冷蔵庫を、勝手に見ないでください!」
「あ、ああ、悪かったよ。しかしお前、普段なに食ってんだ?」
男の問いに、少女は髪を弄くりながら気恥ずかしそうに答える。
「こ、この辺は何でもありますから、出前ばかりでして。それに、越してきたばかりで、いろいろ手が回ってないってゆうか、なんというか」
「あー、お前、最近転校してきた隣のクラスの生徒か、どうりで見覚え無いわけだ」
はっはっはと、少女のプライベートを土足で駆け回ったことはさて置いて、男は豪快に笑って見せた。そして「そういうことなら」と、男はスマホを取り出したが、それも少女が止めた。
「いえ、ここはお詫びもかねて、あたしにご馳走させてください!」
「いや、しかしだな、大人の威厳ってやつがあってだな」
「小僧、一人1万の寿司代を、お前に払えるのかニャ?」
男はようやく気付いた。否、推察し得るほどの材料はいくつもあった。高層マンションの上層階、高校生にしてはよくできた言葉遣い、目つきは悪いが毛並みの良いペルシャ猫。彼女は、ジャンクフードくらいでは満足できない舌の持ち主であることに。
しかし男、退くに引けない状況というものありけり。
「おっ、大人を、あんま舐めんなよ、たかだか2万、余裕はあるわい」
「じゃあわし、特選二人前な」
「は、お前はキャットフードだろ」
「ぺっぺ、あんにゃ猫のエサ食えるか!」
「ネコでしょうが!」
ふたたび漫才のごとしやり取りを始める彼ら。何でもいいから早く食事にしたい少女、ついに見かねて仲裁に入る。
「先生、あたし達、何の説明も無しに先生をここまで連れてきてしまったんです。ここは謝罪も兼ねて、どうかあたしに…………」
男の逃げ口を用意しつつ、さらに非はこちら側にあるということを強調する少女に、彼はどこか胸を撫でおろすかのように息をついて。
「それもー、そうかもなー、分かった、君の誠意、しっかりと受け取ろうじゃないか」
「だっさいのぉ、お前」
「うるさい」
そんなこんなで落としどころが見つかり、ようやくかと少女は電話で出前を取った。なお内訳はというと、猫、特選二人前。少女、特上一人前、男もそれと同じ。税込み価格で、計四万五千百四十四円なり。
「では、先ず簡単なことから説明しますね」
寿司を待つ間、少女らは8人掛けの楕円状のダイニングテーブルの隅に集まり、空腹を紛らわせるかのように話の続きを始めた。
「学校で暴れていた生徒についてですが、何か、人ならざる者の姿をしていたかと思います」
「ああ、巨大化した毛の無いゴリラみたいになってたな」
「言い得て妙だニャ」
「例えはともかく、あれは、心のうちに秘められた本性が露わになった姿です」
「本性?」
「ええ、誰しもが持つ、極めて個人的な領域のことです」
やかんが叫び、水が湧いたことを知らせる。少女は立ち上がると、前もって準備していた急須に熱湯を注ぎながら、言葉の続きを述べる。
「人の人格は、およそ三歳の頃に定まると言われてます。それからは、親や親せき、友人や恋人など、周りの人間の影響を受け、人格はどんどん装飾されていくんです」
「クリスマスツリーをイメージすると分かりやすいニャ。幹が本質、枝や葉が性格、周りの飾りがキャラクター性にゃ。飾りつけは毎年違うし、枝を切ることはあっても、幹は切らんだろ?」
「なるほど、変わらない根幹の部分が、本性って訳か」
「そのとおりにゃ。そして出来上がったクリスマスツリーが、アイデンティティだにゃ」
顎をつまみ、ふむふむと納得して見せる男に、おや、意外と話の通じる奴だ、と、少女とネコはほっと溜息を吐いた。だがしかし、ここがまだ出発点であることも、また彼女らは理解していた。そうして覚悟したうえで、さらに話を続ける。
「本性というのは、そうやってどんどん隠されていき、本人でさえも自覚できる領域ではなくなっていきます。ですが本性は、思わぬところで露わになるものです。例えば車の運転やゲーム、何かしらのトラブルで追い詰められたときなどが挙げられます」
彼女はお茶を注いだ湯呑を男と猫(特別な訓練を受けている)に差し出し、自らも湯呑をテーブルに置いて、そうやって言葉を紡ぎながら席へと戻る。そして音を立てて淹れたばかりのお茶をひとくち飲むと、続きを語り始めた。
「そしてひとたび本性が表に出てくると、本人でさえコントロールが効かなくなり、周りの人間を傷付けたり、迷惑行為を働いたり、ある人間は自傷行為に出てしまうこともあるのです。そうなった人間の事を、失律者といいます」
成程と、ここまでのあらましを何となく理解できた男は、たったいま得た情報の中で仮説を組み立て、さっそく自らの考えを話して見せる。
「ははーん、つまりゴリラみたいになった秋山は、根っこからゴリラだったって訳だな?」
したり顔の男に、少女とネコは頭を抱えた、全部無駄たったと。そして漂う気まずい空気を察した男は、「じ、冗談だよ、ジョーダン」と身振り手振りで取り繕ったが、少女の顔色は戻ることなく、さらに間の悪いことに————彼にとっては幸いだったかもしれないが————ここでインターフォンの鐘の音が室内に響いた。
「お寿司、来たみたいですね。あたし行ってきます」