ネコと少女と男の約束
夢を見ていた。
目を覚ますと、目の前にはどこまでも続く闇。月灯りはなく、風も無い。どうやら地面はコンクリートの様で、どこかで水の滴り、素足であるいているかのような不気味な音を生み出している。
「ん、だあ、どこだここ?」
酒のせいか、それとも後頭部に走る痛みのせいか、男は朦朧とする意識のなかで、ようやく自身の置かれている状況について理解した。
「…………なんだコレ」
背もたれのある椅子に座らされおり、手はひじ掛けに、そして足は椅子の脚にきつく結ばれている。つまり男は、身動き一つとれない、危機的状況に陥っていた。脳裏をよぎるのは黄色い雨合羽の男。
「マジかよ、拉致られたか?」
男はとっさに大声を出した。助けを求めるべく。しかし声は闇の中で木霊し、再び男の元へと帰って来た。そして声を発したことで分かったこと、それは、いま現在男が拘束されているのは、地下駐車場のようながらんどうの空間であるということ。
「ええと、確か愛宕の家で飲んで、小鳥遊と一緒に…………」
その瞬間、男は再び声を張り上げた。
「小鳥遊ッ、どこだッ、無事なのかッ?」
やはり返事はない。制律者である彼女に限って、自分より窮地に立たされていることは無いとも考えられるが、それでも男は引き続き喉をふるわせる。
「小鳥遊いッ!」
「…………落ち着いてください」
すると声、それは雨垂れのような静けさで、叫び声にかき消されることなく男の耳に入り込んできた。しかし声の所在は杳としてつかめず。
「よかった、無事だったか、どこにいるんだ?」
「見つけてください、私なら、目の前に居ますから」
男の正面に広がる晦冥から、少女の憂いげな声と共に、スニーカーの吸い付くような足音がヒタヒタと近づいてくる。そして沓音が止まると、男の膝にやさしく触れる温度。
「おい、どういう状況だこれ、ヤバいのか?」
「ヤバくなんかないですよ、先生のことは分からないですけど」
なぞるように、太ももから腹へ、腹から胸板へ、それは最後に首筋を通って、男の顔を包む。膝の上に凭れ掛かる重み、柔さと、その奥に硬さを持ち合わせる肉感、そして不意にかさなる唇。
「んっ」
口を堅く閉ざしても、その感触は一向に消えることなく、それどころか、隙間を這うように、しっとりとした熱さが口角を伝う。そうして、ぷは、と小さな息遣いが口元にかかった。
「なあ、悪ふざけはやめよう、な?」
「ふざけてなんていませんよ。ただ、どれだけ頑張っても、一向に関心を得られないので、すこし強引ですが、許してください」
その吐息を感じられるほどの近さで、少女が男の耳元で囁くように云った。そして膝に乗っていた体重が消え、言葉は続けられる。
「その昔、春を売っていた遊女たちは、誓いの証として、指を切っていたそうです」
「つ、つまり?」
「つまり約束を違えぬよう、先生の薬指を、第二関節から切り落とそうと思います」
「…………はい?」
男は思わず聞き返したが、少女の声色は決して冗談を言っている様には聞こえず、むしろ男の左手薬指を愛おしそうに、指の腹でなぞる始末。
「引きちぎるか、嚙みちぎるか、切り落とすか、お気に召す方を選んでください」
「ば、馬鹿なこと言ってないで、うちに帰ろうぜ、ビー玉も腹すかせてるだろうし、な?」
「案ずることはありませんよ、すぐに終わりますから」
果たして酒でも飲んだか、話の通じない少女との会話に、男は焦りを見せ始めた。けれど拘束されままならない体と、男の心とは裏腹に事を進める少女。そうして時を置かずして、鋭く冷たい感触が指に伝わる。
「おいおいおいッ!」
ばつんと、骨を断つ音が体内を巡った。幸いなことと言えば、暗がりのため心構えする暇もなく一瞬で終わったことくらいであり、暫くすれば、鈍い痛みも指から全身へと広がっていった。
痛みに耐える男のうめき声が、空間に籠る。
「ッ痛————くそッ、くそッ、くそッ、マジでやりやがったなッ」
「先生、もうどうでもいいんですよ、それに、まだ足りないようです」
「指をくれてやったんだ、満足だろ!」
「次は先生の、心が欲しいです」
恐らく布切りバサミのようなものを、少女は使用していることが分かった。それを用いて、少女が男のTシャツを難なく裁断しているところを鑑みるに。そして、点の大きな先端が、真ん中から少し左へズレた所に宛がわれる。
「殺す気か!」
「そうですね、私のものにならないのなら、いっそ」
決して冗談ではないと、指から走るはげしい痛みが、男に訴えかける。愛する者と死ねるなら本望、少女の胸中はそうかもしれないが、男にとっては、何の得も無い行為であることに違いはない。
迫りくる死への恐怖、トラウマ————怪物の秋山、そして体育教師の山本との遭遇で、それは克服しつつあったが、しかし再び男の内にて蘇り、それと同時に呼び起こされるのは、彼の虚ろ。
「来た」
突き立てた刃物を押し進めるも、けれど感じられない手ごたえ。少女はすぐさま距離を取り、消えた先端を触診し、そう確信に至った。
「本性の解放を」
オーバーフローした三鷹に対抗すべく、少女は自身の心臓に鍵を挿し込む。高鳴る鼓動、早まる血流、秘める本性の解放。そうして得られたエネルギーは、小鳥遊の身体を著しく強化した。
「明かりをつけろ!」
小鳥遊は耳に着けたイヤホンを通して、その向こうで待機する誰かに指示を出した。男に恐怖を覚えさせるために造り出した演出は、しかし今となっては自身の命を取りかねない脅威となるために。
満たされた暗黒が、奥から順番に照らされてゆく。
露わになったのは、石柱が立ち並ぶ廃墟のような空間であった。窓は無く、出口らしい出口もない密閉された空間。そして、明らかになったのはその全貌だけでなく、あり得ない壊れ方をした椅子の残骸と、虚無の表情を浮かべる三鷹の姿も少女は捉えていた。
「アホネコ、お前は先に逃げてろ」
彼女は通信相手にそう促すと、イヤホンを外し、ポケットにしまい込んだ。
初めてそれを見たのは、今は無き山本と戦闘を行った際。その、人1人を瞬く間に消し去った正体不明の異能が、極限の緊張感を少女にもたらす。
「さて、どうしたもんか」
触れれば消される三鷹の異能に為ん術なし。ここまでは計画通りであった小鳥遊だが、ここからは、ふたたび彼が自力で正気をとりもどすことに賭けていた。
「頼むよ先生、お願いだから、制律してくれ」
しかし少女の想いも虚しく、三鷹は歩みを止めず、非常にゆっくりとではあるが、彼女との距離を詰めはじめていた。怒り、憎しみ、殺意などの負の感情すら面に出さず。小鳥遊は、その鈍重に甘え、彼が近づいた分だけを離れた————しかし。
「は?」
気づけば目の前に迫る三鷹の姿に、彼女の頭は混乱を極めた。まだ、知り得ない能力を持ち合わせていたのだと、少女は自らの認識の甘さを呪う。
「————ッち」
宇宙の黒渦のごとし異様な雰囲気を放つ三鷹の手を避け、小鳥遊は拳を地面に叩きつける。そうすればコンクリートは彼女を中心に隆起し、男の身体をも吹き飛ばした。
「なに、さっきの」
まさしく瞬間移動の要領で詰めてきた三鷹。一度見た彼の戦いぶりを思い出し、それを材料として、少女は思考をフル回転させた。そうして至った結論とは。
「距離をなかったことにしたのか」
三鷹と小鳥遊にあった物理的な間隔。彼はその事実を消し去り、まるで最初から目鼻の先に置いていたかのような状況を作り出していた。
あらゆる事象を無へと還し、人々の記憶からも抹消する三鷹の異能は、しかし観測者を例外とする。ゆえに小鳥遊は瞬間移動と捉えたが、その事実に気づいてからは、ただ恐怖するほかなかった。
「空間に触れたから消せたのか、それとも意識的に消したのか」
後者であれば、いつ、どのタイミングで自分という存在が消されるのか、一秒後か、あるいは数分後か。答えはどうであれ、彼女にとって長期戦は望ましくなかった。
「先に墓へ入っててくれ、旦那様」
小鳥遊は再び拳を振り上げ、先ほどより出力を上げた打撃力をもって、自らの足元を叩いて砕いた。結果、コンクリートは裂開し、連なる石柱や壁にまでも亀裂が至る。そうして建物は、天井から瓦解を始めた。
小鳥遊は降り注ぐ瓦礫をものともせず、一直線に出口を目指して走る。そんな彼女を待ち受けるように、三鷹が逃げないようあらかじめ降ろしていた搬入口のドックシェルターが立ち塞がるが、彼女はそれを一蹴すると、そのまま外界へと躍り出た。
「小鳥遊!」
「離れろ、すぐに崩れる!」
月明りの下、トラック専用の広い駐車スペースで待っていたネコにそう促すと同時に、彼女は駆け足のままネコを拾い上げ、建物の崩壊に巻き込まれないよう、安全地帯へと急いだ。
「始末書じゃ許されないニャ、これは」
「どうせ取り壊しが決定されたんだ、むしろ感謝されるべきだろ」
砂で出来た城のように、真ん中から崩れ行く廃墟。それは石を投げられた水面のように、外へと向かって倒れて行く。その内側に三鷹を残して。
「奴は?」
「死んではいないだろうが、封じることは出来たかもしれない」
生物だろうと無生物だろうと関係なく、三鷹の肌に触れたものから消滅するため、それがただの希望的観測に過ぎないことは、彼女が一番に理解していた。つまり三鷹が瓦礫の山から脱出できる可能性は高く、そうなった場合の計画について、彼女は再び熟考する必要があった。
「制律させるためとはいえ、やはり無理があったにゃ、このまま奴が正気を取り戻さんかったら、応援を呼んで制圧するしかあらへンで」
「そうならないために、いま考えてんだ」
土埃が霧のように漂う。唸るような地響きとともに、その倒壊を終えた廃墟は、そうして見通しのよい景色を作り出した。しかし積み上がった瓦礫の一部が、小鳥遊らに向かって、なおも線状に沈み込んでいる様がうかがえる。
「封じ込めは失敗ニャ、応援を呼ぶで!」
「待ってって!」
「悠長にしてられへンやろ、このままじゃ国がのうなってまうで!」
失律者は文字通り律を失くし、己の欲望に忠実となる。仮に三鷹の欲求が破壊衝動であれば、その強力な異能を使用し、日本を内側から食い尽くす可能性が高く、そのためネコは緊急事態発生時のマニュアルに従おうとしていた。そんな彼とは違い、最後まで粘るのは小鳥遊。
三鷹の本性は虚無であると、彼女は推測していた。そして問題とは、彼が正気を取り戻すための条件。
「くそ、もっと先生の昔話を聞いとくんだった」
今更ながら後悔が募る。一度は断られたものの、折れずしつこく聞き出しておけばよかったと。
ここでついに、沈下を続けていた瓦礫の動きが、さながら堰き止められた水流のようにぴたりと止み、そうして出来上がったトンネルの中から、思うままの足取りで、その姿を月下にさらした。
「…………こっちに来よるにゃ」
「ビー玉、もしアタシが消えたとしても、忘れないでいてね」
「え?」
歩み来る三鷹に相対するように、小鳥遊も歩を進めはじめた。一体なにを考えているのか、その想いは到底はかり知れないが、それは、決死の行動とも捉えられた。
「よせ、ナガレハ、行くな————行かないでッ」
彼は駆け出した、少女に、置いてゆかれないように。再び家族を失うくらいなら、共にゆかんとするために。しかし品種ゆえにそれも長くは続かず、彼の想いは虚しくも届かなかった。
「頼む…………逝かないでくれ」
その声は、少女の耳にも届いていた。けれど彼女は、その足を決して止めようとはしなかった。そうさせるのは、一つの確信。
「先生、きっとアンタも、アタシと同じなんだよな」
理由はどうであれ、彼もみなしごであったのだと、少女は気付いていた。
まるで母の影を追うかのように、彼は年上の女性を理想としていること。誰に対しても表裏のない性格は、自己に対して愛着を抱けないため、好かれようとか、嫌われたくないなどの感情が乏しく、まるで機械のように応じていただけであること、等々。
「つらいよな、自分に価値を見出せず、まるで偽物を演じているような感覚はさ」
少女は三鷹に、自分自身との共通点を多く見出していた。そしてそれが、気付きとなったのである。
「でもこれからは、あたしが先生の傍にいる、足りない部分を、補ってやる」
まるで聞こえていないかのように、三鷹の無表情は崩れない。ただの言葉では、心の深い所には触れ得られない。それほどまでに、彼の心は足もつかない深淵にあった。それを引き揚げられるのは、ほかならぬもの。
「愛してるよ、満」
【愛してるよ、満】
言葉に重なる亡き面影と、そして間を置かずに触れる口唇。かつて与えられていたものが蘇り、新月の夜のように暗然とした瞳に、ようやく灯る————彼女も十分に持ち合わせてはいないが、それでも分け与えるように、また総てを差し出すように、見返りなど求めず、かつて自分がそうされてきたように、少女は男にもしてみせた。
小分けにされた息遣い、鼻をすする音。三鷹は、自身を強く抱きしめる少女の肩に顔をうずめると、感謝とも、謝罪とも、また慈しみともとれる言葉を、湿った声で、囁くように言った。