ネコと少女と男の戦場
「マジで撃ちやがった…………」
一発の銃声、されども心臓が止まりそうなほどの轟音に、男は息を荒らして呟いた。しかし驚いたのは男だけではなかった。
「アッハハハハ、いやあ、吃驚、吃驚、撃つときは撃つんだなァ、ハハハァ」
発砲による緊張、その静寂を引き裂くように嗤う雨合羽。その声にはどこか渋みと重厚感があり、落ち着いたトーンでありながら、しかし隠しきれない遊び心も宿っており、不思議と親しみを感じさせる柔らかさを持っていた。
「褒めてやるよ刑事さん、アンタ最高だ」
合羽の男は実弾にも怯むことなく、すこし不自然ながらも、感情豊かに話して見せた。その姿に戦慄した愛宕は、額を伝う雨粒に汗を織り交ぜる。————なぜ、確かに頭を狙ったし、外した感触も無かったはずだ。
「ついさっき仕事を終えたんで、ちょいと見物がてらに来てみたが、まさか正体がバレるとは思わなかったぁ、ナニモンだ、てめえ」
合羽の男はフクロウのように首を回し、フードの中を満たす闇を男に向けた。自らを指して失律者と叫んだ、ネコを抱える男の方に。その声は僅かに苛立ちを孕んでいたが、けれどスイッチを切り替えるように、今度は楽し気な調子で続ける。
「でも感謝するよ、だってお陰さんで、計画が完成するんだからなあ、ハハハ」
「うるせえ、殺すぞ変態野郎」
「おっほっほ、怖いねえ、言葉に感情が伴っていないぞ?」
「はあ?」
「お前もアレだろ、ガキの頃に、…………いや、この話は楽しみに取っておこう」
そう言って黄色い合羽の男は、全身で雨を受けるように両手を広げ、カーテンコールに応じる役者のようにお辞儀をする。
「それでは紳士淑女諸君、さらば、ご機嫌よう」
そう言って合羽の男はくるりと振り返り、ケタケタと声高らかに笑いながら走り出した。だが、そんな無様な遁走をただ見守る警察ではなく、その男を捕らえるべく、何人かが追跡を試みた————しかし。
「おい、何すんだ!」
一人の警察官が行く手を阻まれる。否、彼だけではなく、その他の警官、野次馬たちも、注目していたはずの合羽の男の背中を無視し、その場で混沌を作り上げた。ある者は憤り、ある者は哭き、ある者は嗤う。
拳銃で一般人を撃ち殺す警官、1人を数人で取り押さえ、なぶり殺しにする人々、凌辱の限りを尽くす者、押し倒され、犯されながらも喜色を露わにする者。
半分以上は正気を保ったままだったが、展開される地獄絵図を目の前にすれば、例え法の番人であろうと、その無秩序を正そうとはしなかった。
「おいビー玉、どうなってんだ一体!」
「オーバーフロー、してるにゃ」
ありえないと言わんばかりの面持ちで、ネコは声を震わせた。それはもう、制御できる状況にない事を示している。
「さっきまで何ともなかったろ!」
「きっとあの男が、あの合羽を羽織った不気味な男が、奴らに何かしたんだにゃ」
「それでどうすればいい、どうすれば収まるんだよ」
男の呼びかけについに反応しなくなったネコは、ただ男の腕の中で、子猫のように震えるばかりであった。
「三鷹、無事だったかッ?」
「愛宕ッ」
狼狽えるばかりであった男の元に、愛宕が駆けつける。彼は正気を保っていられたようで、血の気の引いた蒼い顔をしてはいるものの、冷静に銃口を狂乱者たちに向けながら男に叫ぶ。
「一体どういうことか説明しろ」
「こっちが聞きたいっての」
「なに!? お前専門家だろッ?」
「こちとらOJTの最中だっての! それより足柄は!」
「家の玄関が締まってる、多分中にいるんだろ」
「ならよかった」
ひとつの憂いは無くなったが、未だ惨憺たる状況であることに変わりなく、鳴りやまぬ銃声、叫び声、笑い声に、彼らはただ忍び、十字路の角に身を隠すことしか出来なかった。
「チクショウ、小鳥遊はどこで何やってんだ」
「電話にゃ、電話してみるにゃ」
「ああ、そうだなっ」
ネコの提案に乗った男は、早速スマホを取り出し、画面をスクロースさせた。
「ね、ねえ、何でネコが喋ってんの?」
「あ? 気のせいだろ」
「いや気のせいじゃないよね、いま確かに喋ってたよね……?」
「ちょっと黙ってろ————あ、小鳥遊か、今どこにいる?」
さらに顔を蒼ざめさせる愛宕を他所に、男は、隣町にいると言う小鳥遊に状況の説明を始める。
「ちがうちがう、失律者が大量発生してるんだよ、いいから早く来てくれ————そうか、どれくらいで着きそうだ? ————え、場所?」
男は小鳥遊に所在を問われたらしく、スマホを耳から話すと、ネコの頬をつつく愛宕に現在地を聞いた。
「なあ、ここの住所って分かるか?」
「ああ」
愛宕が頷くと、男はスマホを彼に手渡した。そしてそれを受け取った愛宕は、手帳に記した住所だけを小鳥遊に伝えると、そのまま機器を男に返す。
「聞いたな、で、何分くらいで着く? ————は、30秒だ? こんな時に冗談言ってんじゃねえぞ!」
ありえない数字を出され、男はスマホに向かって吠えたが、しかし電話を切られたのか、「もしもし」を何度も連呼し、彼女の応答を確かめた。だが当然の如く、返ってくるのは無音のみ。
「アイツ切りやがった」
「で、どんくらいで着くって?」
「さあな、30秒とか抜かしてたが、O型はサバ読むからな、あと10分はかかるだろ」
「こんな時にO型かよぉ」
そうやって二人して肩を落とした後、気を取り直した愛宕が状況を確認するべく、角から顔を覗かせた。しかしながら場は収まるどころか、一層激しさを増しており、そのカオスを目の当たりにした愛宕は、ため息を零しながら顔を引っ込めた。
「どうだ?」
「だめだ、まだ続いてる」
「スワットとか自衛隊とか呼べないのかよ」
「日本にSWATはいねえよ、けどまあ、応援は頼んでみる」
そうして愛宕がスマホを取り出そうとした時だった、上空から風を切り裂く音、それに気づいた愛宕らが顔を上げると、曇天の夜空を舞う、一つの影がチラつく。
「ついに目までオカシクなっちまいやがった」
「ありゃあ…………人か?」
まるで闇夜に流れる星礫のように、ただただ愚直に、こちらへ向かって落ちてくる影。それは走幅跳の要領で、体全体のバランスを保っており、体は弧を描くように滑らかに前進、腕と足が対称的に動き、着地点を目指す姿はさながら矢のように鋭かった。
「もしかして、小鳥遊か?」
「こんなときに馬鹿言ってんなよ三鷹、人間があんな高く跳べるわけ…………」
降る影は、足が地面を捉えた瞬間、体を柔らかく沈み込ませ、衝撃を吸収させた。アスファルトを粉砕し、砂埃を舞わせ、そうして衝撃音と共にそれらが落ち着きを見せ始めると、露わになったのは、学校指定の白と紺色の体操着に身を包んだ少女の姿だった。
「無事か?」
上空300メートルほどの高さから墜落したにも関わらず、シャツやハーフパンツから覗く四肢は無傷で、さながらアップを終えたアスリートのような涼しい顔ばせで、少女は問うた。
しかし人間離れした彼女の派手な登場に、男たちはただ赤べこのように首を振ることしか出来ず、だがそれを見て安堵の息を漏らした小鳥遊は、凛とした表情のまま「ならよかった」と返し、続けて言う。
「おいパツキン」
「…………パツキンって、もしかして俺のこと?」
自身を指さしながら、愛宕は聞き返した。いつもであれば敬称をつける小鳥遊の筈が、なぜか今回に限って名前すらも呼ばなかったために。
「アンタ以外に誰がいんのよ」
「てめえも金髪だろうが」
「うるさい、いいから鉄砲よこせ」
「はぁ!? ダメに決まってんだろ!」
当然ながら断る愛宕だが、しかし本性を解き放ち、ヤンキーモードとなった小鳥遊の前では、まさに蛇に睨まれた蛙の如し。彼女の青目に睨まれた彼は、緊急事態ということも加味し、ここまで手放さなかったピストルを手渡した。
「弾薬よし、安全装置よし、弾込めよし」
愛宕の自動式けん銃を、まるで使い慣れた時計の電池でも交換するように、ものの数秒で、彼女は発射準備を滞りなく終わらせた。
「いいか、そこから動くなよ」
それだけ言い残し、一歩、また一歩と、変わらない歩幅で進む小鳥遊。そうすれば正気を失った人間が、次第に彼女の存在に気付き始める。
「そこの女の子ぉ、止まりなさぁぁい」
一人の警察官が、口元を三日月のようにして笑みながら、手に持った拳銃を彼女に向けた。理性が吹き飛んでいるため、その指は常に引き金に掛かっており、照準を合わせた瞬間、発砲する気でいることは明々白々。
そして銃声が響き渡る。だが煙を吹いていたのは、小鳥遊が握るピストルの方であった。
発射された弾は、耳をつんざくような金属音を奏でながら、警察官の拳銃を見事に打ち抜いた。またそれだけではなく、小鳥遊は他の失律者が持つ拳銃をも、弾丸をもって正確に吹き飛ばす。
そうして狂乱者たちが行う殺し合いの中で、一番の威力を示していた銃火器の無力化に成功した彼女は、借りた拳銃を後ろへ放り投げると、決して止めなかった歩みを、今度は襲歩のごとし駆け足へと変える。
車一台がようやく通れそうなほどの路地にひしめく怒号。その中心に飛び込んだ彼女は、まるで台風の目のように冷静だった。
「こんなオジサンでも、いいいいいい?」
一人が小鳥遊に拳を振り上げるが、彼女はわずかに体を捻り、その腕をすり抜けると、そのままカウンターで顎を狙い、鋭い一撃を叩き込む。そうすれば男は、声を出す間もなく崩れ落ちた。
次の瞬間、背後から迫る足音。彼女は振り向きざまに蹴り上げ、脇腹を正確に捉える。風を切る音が響き、その男も大きく吹き飛ばされる。
残る者たちも、動きを止めることなく襲いかかるが、彼女はまるで舞うように身を翻し、攻撃をかわしながらその隙間を抜けた。手首を掴み、肘を極め、次々と地面に倒していく。
そんな少女に、一人が警棒を振り下ろす。だが彼女は、それすらもまるで読んでいたかのように横へ転がり、足払いでその武器を手元から奪うと、そのまま起き上がり、鋭い突きを喉元に突き立てた。
そうして、路地には倒れた人々の荒い息だけが残った。
彼女の肩はわずかに上下するだけで、その蒼眼はなおも鋭く光を放っており、自らが作り上げた静寂の中、雑に髪をかき上げ、ゆっくりとその場を去っていった。
「ね、ねえ、誰あの子、あんな子、知り合いにいたっけ」
目つきの悪い小動物くらいにしか思っていなかった愛宕は、たったいま目の前で繰り広げられた極めて一方的な制圧に息を呑み、そして同じく、“恐ろしい子”と言わんばかりに白目を剥いていた男にそう聞いた。
「いや知らない、あんなハリウッドスター」
ヤンキーモードの小鳥遊が怪力を有している事実は知っていても、とめどなく流れる水のような戦闘を目撃した男は、改めて小鳥遊の恐ろしさを理解し、そして首を横に振った。
地面に伏せた大人たちを背後に、服に付いた埃を払いながら帰ってくる少女の勇ましい姿に、そうやって男たちは心に誓った。————もう、舐めた態度はとらないようにしよう。
「お二方、ご無事で何よりでした」
つい先ほどまで、見合った者から殺さんばかりの刺々しい雰囲気を纏っていた小鳥遊に、愛宕らは沈黙を貫いていたが、しかし今度、まるで聖母のような柔さをもつ、いつも通りの彼女の姿に、二人は、押し殺していた呼吸を再開させた。
「よくやった、さすがはウチのエース」
男は彼女の肩に手を置き————。
「後日、感謝状を贈るよう署長に掛け合ってみよう」
愛宕はもう反対の肩に手を置いて、調子のいい声でそう言った。
「嬉しいお言葉ですが、二次被害が起きないよう、残った人たちの対応を急ぎましょう」
あれだけの惨劇を前にして、冷静を保っていられるのは難しく、それを目撃した人間がオーバーフローを起こす可能性があると考えた小鳥遊は、これ以上の被害を招かないためにも、彼らにそう指示をした。
それもそうだと、ここまで道角で震えることしか出来なかった男らは、ようやくそれらしい顔つきを取り戻し、そうして後始末に乗り出したのであった。