ネコと少女と男の出会い
なんてことはない、いつもの放課後だった。
夕凪の頃、吹奏楽部の調律の音が窓から微かに流れ込む。その音色は、何か遠い場所からの手紙のように涼しく響き、合わせて聞こえる運動部の掛け声と賑やかに入り混じる。文月の斜陽に焼かれたその音たちは、どれも暑苦しく、それでも不思議と心地よい。教室の中で、それらの音を背景に、僕らは二人きり、机の上にスマホを並べていた。
「あのキャラ、いいよな」
「そうかな。てかさ、推しのモチ武器が復刻するらしいんだけど、やっぱり引くしかないでしょ!」
そんなくだらない話題で盛り上がり、笑い声を交わした。人のいない教室は広すぎるくらい静かで、だけどその静けさが妙に落ち着く。七月の夕暮れ、ただそれだけの時間だったのに、僕たちは、それ以上の何かを求めてはいなかった————なんてことはない、いつもの日常。
「あ、秋山?」
————になるはずだった。
「あ゛ー、あ゛―!」
三上孫太、17歳。
成績は中の下といったところ、部活動には入っておらず、家に帰ればゲーム、アニメ、漫画などの趣味に興じる毎日。自分に自信は無いが、承認欲求は人並みにあるため、授業中、好意を寄せている女子を、乱入してきたテロリストから守る想像によく耽ている、どこにでもいる普通の高校生である。
ホームルームが終ったあと、三上孫太は、気の合う友人の秋山と、シリーズ物のゲームの次回作について、話に華を咲かせていた。だが突如、友人の秋山が豹変した。
友人の秋山、同じく17歳。
幼少のころから体が大きく、出生時から平均よりも大きめの3900グラムであった。そのため中学に上がるまではガキ大将として幅を利かせていたが、しかし著しかった身長の伸びは落ち着きを見せ、また思春期に入るにつれ、体と同様に肥大だった自意識も次第に縮小し、今では三上と同じパッとしないグループに所属していた。
三上と友人の秋山は高校1年の春頃に出会った。きっかけは昼休みに三上が興じていたスマホゲーム。たまたま通りがかったクラスメートの秋山がそれを見かけ、三上に声を掛けたのが始まりである。共通の趣味を持っていた彼らが打ち解けるのは早かった、放課後はそれについて話し合い、家ではオンライン上でつながっていた。
しかし友人の秋山は悩んでいた。自分の話にまず否定から入る三上に、そして、常に会話の主導権を握ろうとし、自分の話したいことしか話さない三上について。高校1年の春から、現在に至るまでため込んだ鬱憤、それが爆発したのは、なんてことは無いいつもの日常————少なくとも三上にとって————の中であった。
「お、落ち着けよ秋山!」
椅子が後方へ吹き飛び、黒板に突き刺さるほどの勢いで立ち上がった秋山に恐怖し、三上は椅子から転げ落ちた。
平均以下の身長、平均以上の体重、小さくて丸々しい愛嬌のある秋山の見た目は変貌、背の長さは2メートルに達し、脂肪がパンパンに詰まっていた色白の腕は、血管が浮き出るほど、筋骨隆々とした丸太の様な腕っぷしに変わる。サイズの合わなくなったメガネのフレームは歪み、レンズが割れ、破片が飛散する。
「あ゛ーッ、いつも自分の、話ばっかりッ、あ゛ーッ、いつも俺の、推しを否定ずる!」
アメコミに登場する緑のヒーローを彷彿とさせる立ち姿、膨れ上がった上半身によって、まるでストッキングの伝線のように学生服は破れ、白い肌が露わになる。それはさながら、爬虫類の脱皮とも捉えられた。
「ひっ、ば、化け物ぉ!」
腰が抜けているため立ち上がることは出来ず、三上は赤ん坊のように這いずりながら、教室の扉を目指した。時速2キロメートルに満たない速度でも、扉までは残り1メートルを切った。そしてその時、三上に最後の幸運が訪れた。カラカラと音を立てて開く扉、その奥には人影が認められる。
「おーい、何の騒ぎだいったい」
「あッ、あ、あっ、たす、たすたす、助け————ッ」
現れたのは隣のクラスの担任だ。基本的に教職を見下している三上であったが、その時は命の危機から救い出してくれる大人に見えた。そんな救世主に涙をこぼす、しかし三上の運はそこで尽きた。建物を解体する鉄球の如し、怪物と化した秋山の、その振り下ろされた拳によって。
木目調の床だった筈は血潮によって塗り替えられ、爆散した肉片や飛び出た臓物で、壁が彩られる。鮮血によって赤く染められた教室、そしてその色は、扉の奥に佇んでいた教師にも至る。
「…………んだよこれ」
男子生徒と同じく、今日もいつも通りの一日だと欠伸をしていた男教師だったが、目の前で繰り広げられた凄惨が、それは違うと男の心にNOを突き付けた。男は、顔に付着した脳の欠片を拭い、それを理解した。だが時は既に遅く、巨大な影が成人男性の身体をまるごと覆い包んだ。
「ぜんぜー、おで、将来はユーチ゛ューバーになりだいんでずぅ」
「い、今からでも、遅くは、ないんじゃないかな」
およそ人間の声帯から発せられた声とは思えぬほどの歪な音に、男は顔を引きつらせながら答えた。すると生徒の秋山は、あぁー、と、顎を突き出すように笑みを浮かべる。
「でも、教職もいいでずよねぇ、女子生徒、食べ放題じゃあないっすがあ」
「はんっ、犯罪だよ、ソレ」
「え゛、ぜんぜーも、おでの話を、否定ずるんですがあ?」
泡立つ唾液が口角から滴り落ちるほどの笑みが、一瞬にして般若のごとし形相に一変した。その表情を見て男は察する、これはヤバいと。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉあ!」
脳裏をよぎった死、それから逃れるべく、部活動の時間、人の出払った風通しのいい廊下を爆走する28歳、男性、女性経験なし。その叫びは、恐怖をかき消すためのものか、それとも己を鼓舞するためのものか。
「まっでー、廊下を走らな゛ーいッ!」
「うるせぇぇぇぇ! お前こそ走ってんじゃねーか!」
脱兎を追う獅子のごとし速度、生徒の秋山は、2メートルを超える巨躯でありながら、アスリートも顔負けの記録を更新し続ける。対する男は、犬の様な荒い息遣いがすぐ後ろまで迫っていることに気付き、その恐怖によって足がもつれ、ついに転げてしまった。
「くっそぉぉぉッ、こんなとこで死ぬかよぉぉ!」
転倒こそしたが、けれど男は諦めず、腕の力だけで前進を始めた。だが30センチメートルほど進んだところで、その努力も阻まれることになる。
「づーがまーえた」
生徒の秋山が、男のふくらはぎを鷲掴みにし、そしてそのまま、顔の高さにまで引き上げたのだ。黄金比率を無視した顔面の面積に圧倒され、のれんのように覗く、ぬらぬらとした歯に死を見出し、男はそこで総てを捨て去った。
【お、お母さんッ、おかあさん!】
【今日からお世話になります】
【おめでとう】
フラッシュバックする記憶、つまり走馬灯さえも流れ始め、そうして28年の人生もいよいよかと諦めかけた時。
突如、生徒の秋山による拘束が解け、男は頭から落下した。「痛って!」訳も分からず、脳が混乱を極める状況の中、声。
「伏せてろ」
「…………え?」
刹那、首根っこを掴まれ、後方へと投げ飛ばされる男、彼方此方へと移り行く視界の中、一瞬だけ見えた背中は、見覚えのあるセーラー服に身を包んだ生徒のものであった。ごろごろと転げ、ようやく回転を留めた彼は、首を振って揺らぐ意識にムチを打ち、その姿を再度確認する。
凛とした立ち姿、肩に届かないほどの長さで切り揃えられ、窓から差し込む日光を乱反射する金糸のような髪。絶望のなか、男が認めたそのシルエットは、確かに怪物の秋山に相対していた。
「あ、おい、あぶねーぞ!」
「うるさいニャー」
教師の責務からか、女子生徒を案じて男が声を張り上げた時、視界の端に白い塊がチラついた。男が視線を落としてふと見てみれば、そこには雪色の毛並みをしたペルシャ猫が、甲斐甲斐しく前足の毛繕いをしている姿が目に入った。
「は、猫? 何でこんなとこに」
「オイ人間、気安く触ってんじゃあニャーぞ」
「うぉあ、びっくりしたァ!」
金色の虹彩と糸のように細い瞳孔、ピンと尖った耳、持ち上げれば餅のように伸びた胴体、見てくれは完全に猫ではあるが、男がそれを抱き上げた時、なんと猫は、流暢に————独特なイントネーションではあるが————人の言葉を話して見せたのだ。それには男も驚嘆し、とっさに猫を手放す。
「猫が、喋ったっ?」
「そない驚くことかニャ、ヨンて鳴く犬がおるんや、喋る猫なんて珍しニャいやろ」
「…………しかも関西弁」
「ニャにか問題でも?」
人語を介す猫、さもありなんと語尾は猫らしく、そして関西弁を話すというキャラの渋滞っぷり、これには男も堪えきれず————。
「喋る猫がおるかーッ!」
「耳元で叫ぶな、このドサンピンがッ、ぶっ殺すぞ!」
————こ、こえぇ。
目をおっ開き、牙を剥きだしにした猫の恫喝に、男は思わず「すいません」と謝罪した。すると、メスを囲った雄ライオンのごとし面もちの猫は、「分かればええ」と、喀痰するかのようにぷっと毛玉を吐き出し、次に、ひそめた眉を和らげると、その視線を女子生徒の方へ向けてこう言った。
「それに、あの娘なら大丈夫にゃ」
「いやいやいや、あの体格差を見ろって、どう考えても無理でしょ」
「おい小僧、黙って見とけ言うたよにゃ?」
「はいッ、スイマセン!」————言ってないよ、怖いよ。
白猫の強面に気圧され、記憶に無い言葉について指摘することも出来ず、ただ男は口をつぐんだ。そして再び、視線を女子生徒と怪物の秋山の方へと戻す。
一方、金髪の少女は、道端で干からびているミミズでも見るかのような目つきを怪物の秋山へと差し向け、汗も一つかかず、それと睨み合っていた。
「ったく、オーバーフローなんか起こしやがって、これだから思春期ってやつは」
眼前の巨漢に臆することのない、冷ややかな、それでいて奥に業火を映す怒りの眼差し。そんな瞳に睨まれた秋山は怖気づき、「あ……あ……」とくぐもった声を上げた。
「お゛、おん、おおん」
「あ? はっきり喋れ」
今にも自販機ほどの高さにまで達しそうだった秋山の身長が、秘密道具の光線を浴びたかのように、みるみると小さくなってゆく。その様を見た男は、当然それを不思議がった。
「なんだ、秋山の体格が、変わってゆくぞ」
「あの男子生徒が小鳥遊にビビったんだにゃ」
「と、いいますと?」
「恐らく、相手が恐怖するほどデカくなり、逆に物怖じせん相手にゃあ、萎縮してしまうのにゃ、野生動物と一緒ニャ」
「お前みたいなか?」
「なあニイチャン、お前、一回シんどこか」
女子生徒の迫力によって、冷や水を浴びせかけられたように威勢を失ってゆく小心者の秋山だったが、しかし失われた自制心がそう容易く戻ることも無く、逆に彼は、怒りではなく次にあるものを爆発させる。
「女のご、女女女女女、オ゛ンナァァァアア゛」
全身に血液を巡らせ、再びその体を肥大化させてゆく秋山、その身長はついに、天井に頭が着くほどにまで長くなった。顔を真っ赤にさせ、青白だった肌色は瞬く間に精気を帯びて行く。
「お、おい、猫、アイツ、またデカくなったぞ!」
「どうやら、僅かに冷静さを取り戻したことによって、小鳥遊がメスであることに気付いたみたいやニャ」
「ハァ!?」
「まあでも大丈夫にゃ兄ちゃん、あないな野生動物に負ける小鳥遊やあらへン」
発気揚々の力士の如く、秋山はパンパンに膨らませた足の筋肉を爆発させた。その速度の凄まじさたるや、ビニル床を歪ませるほどの脚力、窓ガラスは衝撃波によって裂壊、音の壁を破った際に生じる轟音。秋山は暴風を従わせながら、少女へと迫る。
だが少女の心は、なおも揺るがず。
「盛りやがって」
時速1,235キロメートルの肉塊、少女はそれを、ほんの片手で受け止めた。
新幹線以上の速度で飛び出した、中型トラック並みの巨躯を、さながらゴムボールをキャッチするかのように止めて見せた少女。そのありえない光景に、当然ながら男は、眼球が飛び出しそうなほど驚いた。
「ええええええっ?」
「ホンマうっさい奴やのう、お前」
三角の耳をふさぎながら、白猫は濃ゆい影を面に浮かべて男をニラむ。けれど男は、依然として愕然とした表情を浮かべながら、その注目を少女から離せずにいた。
「…………あり得ないだろ」
「っふ、よう見ときぃ」
盛りのついた秋山を見事に抑えた女子生徒は、今度、もう片方の手で握りこぶしを作ると、それを高々と振り上げる。
「人1人殺したんだ、テメエは、ぜってー許さねえ」
そうして振りかぶった小さな拳を、秋山の脳天に叩きつけた。
まるでお辞儀をするかのように、秋山の上半身は床にめりこみ、さらに留まらず、鉄筋を突き破って階下へと墜ちる。それはまさに、はたき落とされた蠅のごとく。
「見たか、あれが、小鳥遊にゃん」
我が子を自慢するかのようなしたり顔を見せるネコ。だが内心穏やかではなかった男は、後ろ足で耳の裏を掻くネコを持ち上げ、叫ぶ。
「完全に人1人殺してんじゃねーか!」
「わめくな小童ッ、その舌ぶっこ抜くぞッ!」
「…………す、スイマセンでした」
「クソガキが、分かりゃええんじゃ」
どこからそんな声が出るのか、自分以上の怒声を浴びせてくる猫に押し負け、男は担ぎ上げたネコを、さながら赤子を寝かせるようにそっとおろした。
「それで、あの、ご説明願えますか?」
「ああ?」
「この騒ぎ、夢じゃないっすよね」
震えた声で情けなく問うてくる男に対し、猫は分かりやすいため息を吐いてこう言う。
「まず一つ、大切なことを教えるにゃ」
「は、何でしょうか」
「わしを抱け」
「あっ、いや、そういう趣味はないんですが」
「そういう意味ちゃうわ鼻クソが、こっちだって願い下げにゃ!」
そうやって男がネコと漫才を繰り広げる中、ぽっかりと空いた床の穴を覗き、秋山の沈黙を確認した少女が、小走りで彼らの方へと向かう。そしてギャーギャーわめく1人と1匹に、こう促す。
「お二方、逃げますよ!」
「え?」
先ほどの口調とは打って代わって、今度は丁寧な言葉を使う少女に、男は思わず聞き返した。しかし何やら、少女とネコは慌ただしく————。
「ほら兄ちゃん、さっさとワシを抱えんかい」
「はあ?」
「この騒ぎで人が集まってきます、早急に撤退しましょう」
「あの、どういうことか説明を————」
「返事はハイやろがいッ!」
「はい!」
コンプライアンス抵触確実な怒号に押し負けた男は、言われるがままにネコを抱きかかえ、そして「こっちです!」と言う少女の後を付いて行き、その場を後にしたのであった。この後、ちゃんとした説明を受けられると願って。
週1~2話のペースで更新させていただければと。