50話 離婚してその手を取れたら
「――そんな男は捨てればいい。幸せになれない結婚なんか続ける意味がない」
「離婚してしまったら私の居場所はどこにもないんです。実家には戻れませんから」
「なら、ここに来ればいい。俺が君の居場所になる」
甘い誘いに、シュゼットの呼吸が止まった。
エリックは、固まるシュゼットの頭に額をつけて懇願する。
「俺は図書館で会った日から毎日、君を想っていた。君が結婚する前に出会えたらと自分の間の悪さを恨んだ。だが、やっと俺の番が来たらしい」
「ダーエ先生、何を……」
目を丸くして振り返ったシュゼットを、エリックは潤んだ瞳で見つめ返した。
「離婚してここにおいで。俺が君を幸せにする。君が好きなんだ」
「!」
愛の告白だと分かった瞬間、顔がカッと熱を持った。
エリックは、こんな自分を――醜い傷跡のある、つまらない女を好きだと言う。
憧れの人に求められる喜びで、胸がはちきれそうだ。
「ダーエ先生……!」
振り向いて彼の首に腕を回そうとしたシュゼットは、左手の薬指にある指輪を見ておじけづいた。
(できません)
シュゼットは王妃だ。
エリックの手を取れば、アンドレを裏切ることになる。
国王を謀るのはこの国では重罪だ。
明るみに出れば、シュゼットだけでなくエリックも処罰されてしまう。
才能ある美しいエリック・ダーエという小説家が悪の道に落ちる。
それはシュゼットにとって、籠の鳥のように自由のない宮殿にとどまって、アンドレに愛されず、ミランダにいびられ続けることよりも恐ろしかった。
「……ありがたいお申し出ですが、離婚はできません」
シュゼットは腕を下ろして、硬い口調で言い放った。
「俺が嫌いなのか?」
受け入れられると思っていたエリックは狼狽した。
それすらも愛おしくて、シュゼットの目じりに涙が浮かぶ。
「いいえ。ダーエ先生が大好きだからです。あなたは私の心の支えだったんです。先生の小説から大切なことをたくさん教えてもらいました」
胸をときめかせる恋も。
身を滅ぼすほどの愛も。
自由のための戦いも。
命の儚さも。
エリックの目を通すと、世界はあんなにも美しいのだろう。
生まれてこの方、虐げられて歪に育ったシュゼットがそばにいたら、彼の心まで汚してしまう。
「先生にはこのままでいてほしいんです。私には手の届かないところで、輝いていてほしいんです……」
顔を背けると、エリックは体を起こした。
「俺は、諦めない」
頑なな調子でそう言って、エリックは雨粒のついた鞄を漁った。
取り出されたのは分厚い紙袋だ。
「それは何ですか?」
「今書いている作品の原稿だ。普段は、完成するまで誰にも見せない。だが、君になら見せられる」
これがエリックの誠意だと気づいたシュゼットは、両手で受け取って胸に抱いた。
「ありがとうございます。読んだらすぐにお返しします。宮廷録も早く見つけられるように祈っていてください」
もう一度だけなら会ってもいい。
そう思っての返事に、エリックはほっとした顔で微笑んだ。
「ありがとう、シシィ」
自分ではない名前を呼んでくれたエリックに、シュゼットは微笑む。
この人と愛し合えたら、どれだけ幸せなのだろうと考えながら。