49話 こんな結婚するんじゃなかった
「何しているんだ。こんな時間に、そんな格好で!」
怒鳴ったエリックは、シュゼットに傘を握らせた。その拍子に手が触れる。
「手が氷みたいだ……。女性が体を冷やすものではない」
コートを脱いでシュゼットの体にかけた彼は、手を掴んで走り出した。
(どこに行くのでしょう?)
抵抗する気力もないシュゼットは、よろよろと足を動かした。
エリックの肩が濡れて、茶色いベストが黒く染まっていく。
水たまりに街灯が反射してまぶしい。
傘を差した通行人はみんな、人目を避けるようにうつむいて家路を急いでいる。
それら全てが、小説の中の出来事のようにふわふわして感じられた。
現実感がないのに、エリックに掴まれた手の熱さは分かる。
その熱だけが、倒れ込んでしまいそうなシュゼットの意識を引き留めていた。
(なぜ私はダーエ先生に手を引かれているのでしょう?)
こんな自分、もうどうなってもいいのに。
エリックは、広場を見下ろせるアパルトマンの二階に駆けあがり、205号室というプレートがかかった扉に飛び込んだ。
そして、シュゼットを椅子に座らせて、洗い立てのタオルで髪を拭いてくれた。
「こんなに冷えて……。君の夫は、雨の屋外に妻を放置してどこに行ったんだ!」
怒るエリックに、シュゼットは小さく首を振る。
「違います、先生。私は自分で家を出てきたんです……」
冷えた唇では上手くしゃべれなくて、声が震えた。
それでも、エリックは急かさない。
シュゼットが話し出すまでじっと待っていてくれる。
「……自分は我慢強いと思っていました。夫にないがしろにされても耐えられると信じてきました。でも、そうではなかったみたいです。愛されないと、人は弱くなるんですね」
アンドレがシュゼットのことを妻として扱ってくれたら、きっともっと強くいられた。
ミランダに何を言われても王妃らしく微笑んでいなせた。
カルロッタや両親にも酷い言葉は投げかけられてきたシュゼットは、リシャールと違って怖いものなどないはずだった。
(でも、本当は)
シュゼットは弱かった。
弱いことを認めたくなくて、物と会話して心を慰めて、その場しのぎを繰り返してきただけなのだ。
不器用な生き方しかできなかったつまらない女が、王妃になったところで変わるはずがない。
その理屈でいうなら、アンドレが愛してくれないのは、まさしくシュゼットのせいだ。
「私、愛されたくてたまらないんです。それなのに、絶対に愛してくれない人と結婚してしまいました。取り返しがつかないのに、もう結婚する前の自分には戻れないのに、それがとても悲しいんです……」
シュゼットは両手で顔を覆って泣いた。
ぼろぼろとこぼれる涙は、雨のように膝に降り注ぐ。
その雫を十と数える前に、後ろに立っていたエリックの腕が体に回って――。
(あ……)
気づけばシュゼットはきつく抱きしめられていた。