36話 国王補佐になった理由
ラウルは医学書を放り出して走り出した。
悲鳴を上げる子どもたちや、とっさのことで動けない侍女たちを押しのけて、赤ちゃんのそばに膝をつく。
かわいそうに、赤ちゃんの頭はざっくりと切れておびただしい血が流れだしていた。
医学を学んでいるとはいえ、座学でしか知識のないラウルをひるませるには十分な出血量だ。
だが、ためらってはいられない。
胸に差していたポケットチーフを傷に当てて、真っ赤に染まった小さな頭を包み込む。
「誰か、医者を呼んでください!」
死なないでくれ。
祈るようにラウルは赤ちゃんを抱きしめた。
すでにポケットチーフはぐっしゃりと濡れて、指の間から血がしたたり落ちる。
見るのが怖くて、ぎゅうっと目をつむった。
(恐ろしい。でも、この手を離したらこの子は死んでしまうかもしれない)
必死に止血するラウルの元へ、王家お抱えの医師と国王が到着した。
何が起きているか簡潔に伝えて、ラウルは赤ちゃんを託した。
気づいたら上半身は血で真っ赤に染まっていた。
絹のシャツも、ツイードであつらえたジャケットも、血を吸ってずっしり重かった。
それだけ赤ちゃんの命が危険だということだ。
(何もできなかった……)
ラウルは無力さを痛感して涙ぐんだ。
これであの子が死んでしまったら、その責は棒を当てたアンドレだけではなく、応急処置しかできなかった自分にもある。
一連の行動をぼう然と見ていたアンドレは、棒をぽいっと放り投げて国王に告げた。
「ぼくは悪くない!」
信じられない言葉に、ラウルはあ然とした。
アンドレは、あの惨状を目の当たりにしても何一つ反省していなかった。
怪我を負わせた張本人であるにもかかわらず、自分には落ち度がないと主張する。
「あそこにいた赤ちゃんが悪いんだ。ぼくは王子だよ。貴族は王族より下等なんだから、ぼくの方が大事にされるべきだ!」
「……貴様」
ラウルの中で憤りがふくらんでいく。
握りしめた手は血ですべり、乾いた口が切れたが気にならなかった。
(こんなろくでもない人間が、いつか国王として民の頂点に立つのか)
ラウルが父の後を継いでルフェーブル公爵になった後、アンドレのような傷ついた民を守らず真っ先に保身に走るような人間に従わなければならないのか。
(そんなのはごめんだ)
怒鳴ってやろうと思った、その瞬間。
バチン!
すさまじい音と共にアンドレの体が吹っ飛んだ。
「馬鹿者!」
アンドレを殴りつけたのは国王だった。
我が子をこらしめる姿に、集まった貴族たちはシーンと静まる。
「アンドレ! お前が傷つけたのは、ただの子どもではない。この国の未来だ! 王子たる者として怪我を負わせた責任を取れ! そうでなければ、王位は継がせんぞ!!」
「そ、そんな……」
青くなって震えるアンドレから視線を外して、国王は血まみれのラウルに声をかけた。
「ルフェーブルの息子よ。君は本当によくやってくれた。自分を誇りに思いなさい。そして、これからも愚息を支えてやってくれ。この子は愚かだ。君のような優秀な人間がそばにいなければ、すぐに道を踏み外すだろう」
国王は、アンドレが誘惑に弱い性格だと見抜いていた。
息子を見つめる瞳は、ラウルが同情してしまうほど落胆していた。
(この方は、少しも忖度なくご自身の子どもを見通している)
息子が無能だと認めるのは心苦しいことだろう。
しかし、国王は現実から目を背けなかった。
目の前の事実をしっかりと受け入れていた。
王として優秀なだけでなく、人柄も素晴らしい。
父がなぜ国王を崇拝しているのか、その理由がやっと分かった気がした。
(この方はこれから苦しむだろう)
愚かな我が子が自分の後を継いで王になったとき、民が、国が、どんな悲惨なことになるのか計り知れない。
天国へ上った後のことを心配しなければいけないのは可哀想だと、この時のラウルは子どもながらに思った。
「承知しました、国王陛下」
すっとひざまずいたラウルは、心からの敬意を表した。
「アンドレ様は、この俺が何に変えても素晴らしい国王にしてみせます」