30話 現実から逃げるために
ラウルは、自分で焼いてきたクッキーを味見するバルドに視線をやる。
「出版社は何か言ってきているか?」
甘さにうっとりしていたバルドは、頬に手を当ててとぼけた。
「そういえば、『次回作をお待ちしています。できるだけ早く書いてくださいね!』という連絡が来ていたような気がしましたね。私が知っているのは国王補佐のラウル様だけなので、適当にあしらっておきました」
「さすが俺の右腕だ」
ラウルは首にかけていたチェーンを手繰り寄せて、真鍮の小さな鍵を取り出した。
机の鍵穴に差し込んで回す。
カチャっという音を立てて開いた引き出しには、使い慣れたペンとインク瓶、書きかけの原稿が入っていた。
ペンには『エリック・ダーエ』というペンネームが刻まれている。
「できるだけ早くと言われても、資料が足りないうちは書けない」
ラウルはペンを持ち上げて器用に回した。
執筆道具に触れると眉間の皺が薄れた。
縮んでいた瞳孔もゆるみ、物静かな雰囲気をまとった本来のラウルへと戻る。
悪魔から天使に変わったような変貌に、バルドはぽうっと頬を染めている。
「ラウル様は自然体だとまるで別人です。これで髪を下ろしたら、誰も国王補佐だとは気づかないと思いますよ。宮殿にいるときは鬼のようですから」
「ここにいると鬼の形相になってしまうくらいストレスがすごいんだ」
ラウルだって眉間に皺なんか作りたくない。
目を吊り上げて、不機嫌さを隠さずに人としゃべりたくない。
しかし、感情をコントロールしてもすぐに新たな怒りが湧き上がってくる。
矛先はアンドレだ。
相手は国王なので、いくらラウルが公爵家の嫡男でも叱る以上は何もできない。
アンドレの方も、周りが強く出られないのを承知の上で自由奔放に遊んでいるから始末に悪い。
宰相である父のたっての希望で国王補佐になってからというもの、ラウルのストレス値は上昇するばかりだ。
本来の宮廷は、もっと華やかで美しいものではなかったのか……。
絢爛たる宮殿や連綿と歴史をつないできた王家の仕組みを気に入っていたラウルは、いたく失望した。
そして、いつしか宮廷を舞台にした想像を脳内に繰り広げては、現実から逃げるようになっていった。
「それで小説を書きはじめるあたり、そうとう変わっていますよね。ラウル様は」
「うるさい。お前だって、何かあると剣を振るうだろう」
「騎士ですから。でも、ラウル様は国王補佐であり、騎士団預かりの騎士であり、ルフェーブル公爵家の跡取りなんですよ。ただですら殺人級に忙しいのに執筆まではじめたら、そりゃあ目つきも悪くなります。最近はクマまでできて美貌が台無しです」
「ではクマを消すのに協力してくれ。国王と王妃がすれ違っている一件を何とかしたい」
「例の宮廷録の方はよろしいんですか?」
きょとんとするバルドから、ラウルはふっと視線を外した。
「……それは、協力者が見つかったからいい」