29話 ラウルとエリック
ラウル・ルフェーブルは、国王アンドレの補佐として宮殿内で発言力を持っていた。
文官も騎士も侍女たちも、ラウルの命令であれば素直に聞く。
権威があるからというよりは、顔が怖いから……らしい。
ラウルがそれに気づいたのは、たまたま宮殿内で鏡を見たときだった。
映った自分の姿にあ然とした。
目はつり上がり、眉間には山脈のように深い皺ができている。
しぶといクマは寝不足の証だ。
いつの間にこんな表情にと自分で驚くほど人相が悪かった。
ルフェーブル公爵家にいる自分とはまるで別人だ。
こんな形相で命令されたら誰も逆らわないなと納得する。
無視できるのは、アンドレくらいのものである。
「あの自堕落馬鹿は、また問題を起こしたのか……」
衛兵からの報告書を読んで、ラウルはかきあげた前髪をくしゃりと握りしめた。
宮殿内にあるラウルの執務室には、この手の書類が山と積み重なっている。
報告書には、アンドレが宮殿に招き入れた飲み屋街の女の名前や住所が、日ごとに書き込まれている。
その数、三十人を超えていた。
これからこの女たちに金を握らせて、アンドレが王妃をほったらかしにしている現状をうかつに口外しないように交渉しなければならない。
酔っぱらった拍子に話されて噂が広まりでもしたら、貴族からの問い合わせが殺到するだろう。
そうなったら国政にもかかわる。
(考えるだけで憂うつだ)
頭を抱えるラウルの机に、黒髪の騎士が紅茶とクッキーを置いた。
「あの国王に期待するだけ無駄ですよ」
彼、バルドはラウルと同期で王立騎士団に入った友人である。
恵まれた体格といかめしい顔立ち、カラスの羽根のように艶やかな黒髪を腰まで伸ばした姿は、百戦錬磨の戦士を思わせる。
しかし実際は、趣味がお菓子作りという家庭的な好青年だ。
闘争本能を感じさせないおっとりした性格の彼は騎士団の中でも異質で、物静かなラウルと気が合った。
年齢はバルドの方が三つも上だが、生まれが平民なこともありラウルに侍従のように仕えてくれている。
「ラウル様が結婚までこぎつけられたのが奇跡だったんですよ。あんな男に嫁がせられて王妃様もかわいそうに……」
「言わないでくれ、バルド。俺も結婚を押し進めたのを後悔しているんだ」
アンドレとシュゼットの結婚を主導したのはラウルだ。
難点しかない若い国王を名君にするためには、早く結婚して身を固めさせるのがいいと考えていた。
嫁をもらえば、あのアンドレといえども自然とまともになるはずだ。
ラウルは、婚約者との面会から逃げようとするアンドレを捕まえ、結婚式の打ち合わせには必ず顔を出し、精いっぱいの御膳立てをしてきたのだが。
(俺の期待は裏切られた)
アンドレは、王妃シュゼットとの初夜に、よりにもよって王妃の実の姉カルロッタと関係を持とうとしていた。
未遂だが、裏切った事実はくつがえらない。
あの夜、国王の部屋から飛び出てきた王妃シュゼットとぶつかったとき、ラウルはベールの下からこぼれ落ちる涙を目にした。
結婚早々に夫から裏切られた新妻の悲哀が溶け込んだ、清らかな雫に目が吸い寄せられた。
(悲しい目に合わせてしまった)
幼い頃からアンドレの婚約者として生きてきたシュゼットは、侯爵令嬢らしい慎ましやかな淑女だ。
アンドレとの面会のときも絶対にでしゃばらず、ベールの下で静かに微笑んでいた。
そんな令嬢が、夫と姉の裏切りによって純情な心をざっくりと傷つけられた。
しばらく寝込んでもおかしくないとラウルは思っていた。
しかし、予想に反してシュゼットはけなげだった。
寝室にアンドレの訪れがなくても取り乱さず、王妃としての役目を果たしている。
(強い女性だ。ああいう方を見ると、無性に書きたくなる)