夢色ドロップ
公園のブランコが、きぃきぃと耳障りな音を立てて揺れている。日暮れ間近のやけに赤い太陽が刺すように光をまき散らしている。太陽は嫌い。いつも自分が正しいみたいな顔をしているから。
――ふぅ
ランドセルを背負ったまま、ブランコの上で、うつむいてため息を吐く。本当はこんなところにいてはいけないのだ。今すぐにでもここを出てバスに駆け込まなければ、塾に遅れてしまう。でも今日は、どうしてだろう、ひどく体が重くて、塾になどまるで行く気にならなかった。
公園のブランコが、きぃきぃと耳障りな音を立てて揺れる。美月は膝の上に置いた小さなドロップの缶をぼんやりと見ていた。
美月の家は母子家庭だった。彼女が物心つくかどうか、という年齢の時に両親は離婚し、美月は父親の顔も知らない。母は父親に関わるすべての物を焼き捨て、まるで最初から存在しなかったかのように振舞っている。父のことは話題に上ることさえタブーで、一度美月が父のことを尋ねたときは激怒して頬を叩かれた。そのとき彼女は、父のことは知ろうとしてはいけないのだと学んだ。
「甘えないで」
それが母の口癖だった。
「自分のすべきことは責任を持って果たしなさい」
「泣けば許してもらえると思っているの?」
「口ごたえしない! そんなだから女が馬鹿にされるのよ!」
弱音も、反論も、好き嫌いさえ母は許してはくれなかった。母の意に染まぬことをすれば床に手をついて謝るまで何日でも無視された。その間は当然、食事もない。いったい何が正解なのか、どうすれば母は自分を見てくれるのか。美月は常に全身を緊張させ、母の様子を窺う日々を送っていた。
――ふぅ
今日何度目かのため息を吐く。ぼんやりとしている間に日はさらに傾き、きっともうバスは出てしまっている。塾に行かなかったことを知られたら、母は怒り、喚き散らし、美月を叩くだろう。そう考えると恐ろしいが、今は、何か頭の芯がしびれたように、現実感のない空想のように思える。
――からん
膝の上のドロップの缶が揺れて音を立てる。学校からの帰り道、突然声を掛けてきた青年に渡されたもの。チューリップハットを目深にかぶり、着物姿にも関わらずブーツを履いている、ひどくちぐはぐないでたちのその青年は、
「落とし物ですよ」
と声を掛けてきて、美月にこのドロップの缶を押し付けたのだ。驚いて思わず受け取ったものの、こんなものを落とした覚えはない。慌てて返そうと顔を上げるとすでに青年は姿を消していた。途方に暮れて、しかし捨てるわけにもいかず、美月はドロップの缶を持ったまま帰路についた。
どことなく古めかしい金属製のドロップの缶の表面には、色とりどりのドロップが描かれている。黄色はレモン味、橙色はオレンジ味、緑はメロン、赤はイチゴ――見ているだけで心が浮き立つような、不思議な感じがした。食べたらどんな味がするのだろう。母からお菓子の類を禁じられている――甘いものは『媚びている』からダメなのだそうだ――美月には味が想像できなかった。でも、間違えて渡されたものを食べたら泥棒だろうか。警察が来て、私は逮捕されてしまうだろうか。
――それも、いいかもしれない
警察に捕まってしまえば、母は美月に会うことはできなくなる。いや、そもそも警察に捕まるような娘を母は簡単に見捨てるだろう。完璧な娘でなければ、要求をすべて満たす娘でなければ、母には必要がないのだ。
そっと缶のフタを開けてみる。オレンジのドロップが缶から飛び出した。手のひらに乗ったそれを、美月はじっと見つめる。しばらく迷った後、美月はそれを口に運んだ。
「いらっしゃいませ!」
からん、と来客を告げるベルが鳴り、入り口からお客様が店に入ってくる。美月はとびっきりの笑顔でお客様を出迎えた。森の中の隠れ家をモチーフにした小さなカフェと、それに併設された洋菓子店。幾つかのお店で修業を積んだ後、独立してようやく手に入れたこの場所が彼女の城だ。美月はオーナーパティシエとして毎日を忙しく働いている。オーナー、とはいえ、従業員は美月の他には二人だけ。お菓子作りも接客も、他の二人の手が回らないところはすべて美月がやらなければならない。辛いと思うこともあるけれど、それでも美月はこの仕事が好きだ。だって――
「おいしい!」
美月が作ったケーキを食べた、カフェのお客様が顔をほころばせる。その顔を見るのが何より嬉しかった。お菓子は人を幸せにする、魔法のような食べ物なのだ。こんなにも幸せな仕事はきっと、他にない。
「ありがとうございました!」
また来るね、と言って店を出るお客様の背に向かって、美月は深く頭を下げた。
ハッと目を開け、美月は軽く首を横に振る。いつの間にか寝ていた? ならばさっき見たのは夢だろうか? 今よりもずいぶん大人になった美月が洋菓子店のオーナーに? そんなはずはない。美月は甘いものなどに縁がない。食べることも、作ることも、美月は禁止されているのだ。
……そういえば、さっき食べたはずのオレンジのドロップの味が思い出せない。甘かった? そうでもなかった? オレンジ色だからオレンジの味だった? 口に入れたことまでははっきりと覚えているのに、その後のことが何もわからない。食べてすぐに眠った? でもそれなら、口の中にドロップが残っていそうなものだ。
――からん
知らず傾けてしまったのだろうか、フタを開けたままだった缶の口から、今度は美しいヒスイ色のドロップが手のひらに転がり落ちてきた。メロン味、だろうか。薄闇の中でそのドロップだけがやけに輝いて見えた。
「……どうせ」
どうせもう、ひとつ食べてしまっている。ならばこれを我慢してもしなくても、逮捕されることに変わりはない。もう踏み込んでしまった。もう、穢れてしまった。だったら――美月はヒスイ色のドロップを口に入れた。
「待てーーーっ!!」
バッグを抱えて走る男を美月は追いかけている。フードを目深に被りサングラスにマスク姿のその男は、すれ違いざまにおばあさんのバッグを奪って逃げだしたのだ。偶然それを目撃した美月はおばあさんのバッグを取り戻そうと走っているのだ。
「警察を、なめるんじゃなーーーいっ!」
ついに男に追いつき、美月は体当たりで男の足を止めた。男がうつぶせに地面に倒れる。美月は素早く男を後ろ手にひねり、膝で背中を押さえて動きを封じた。腰から手錠を取り出し、時計を確認する。
「十六時二十三分、窃盗の現行犯で逮捕する!」
男の両手に手錠を掛け、鼻息も荒く美月は宣言する。周囲にいた人たちが「おお」と感嘆の声を上げて拍手した。ハッと我に返り、美月は照れたように笑った。
……まただ。また、夢を見ていた。警察官の制服に身を包んだ自分が犯人を追いかけていた。寝てしまった、という感覚はないのに、ドロップを口に入れたところまでははっきりと覚えているのに、そこで記憶が途切れ、夢を見ていた。もしかしたら、このドロップのせいだろうか。いやきっと、このドロップのせいに違いない。眠り薬? でも、長時間寝ていたわけではないようだ。短い夢を見て、すぐに目が覚める。いったいこれは何なのだろう?
――からん
まるで意志を持って外に出てきたようにドロップが缶からこぼれ落ちる。鮮やかな赤いドロップ。幸せに顔を赤らめたような、柔らかい輝きが目に飛び込んでくる。
「これも、食べたら夢を見るのかな?」
心臓がとくんと音を立てる。夢、ただの夢。でもそれは、もうすぐ闇に沈む公園のブランコに座る今の美月よりずっと、笑っている。美月はそっとドロップを口に運んだ。
――カラーン、カラーン
教会の鐘が祝福を響かせ、無数の花びらが風に舞う。純白のドレスに身を包んだ美月は、緊張の面持ちで神父の前に立った。彼女の隣には、同様に、いや彼女以上に緊張している一人の男性の姿がある。直立不動の彼の様子が美月の緊張を和らげた。
「汝、美月。病める時も、健やかなる時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、共に愛し、敬い、慰め、助け合うことを誓いますか?」
神父が厳かに誓いの言葉を投げかける。美月ははっきりと答えた。
「はい、誓います」
神父が表情を和らげる。新郎が美月に向き直り、少し震える手でベールを上げた。
「そう、か」
美月はゆっくりと目を開ける。ようやくわかった。このドロップが何なのか。あの短い夢たちが何なのか。それは――
「思い出しましたか?」
不意に掛けられた声に驚き、美月は右のほうに顔を向けた。誰もいなかったはずの隣のブランコに、今は一人の青年が座っている。チューリップハットを目深にかぶり、着物姿にも関わらずブーツを履いている、不思議な雰囲気のその青年は、ひどく静かに美月を見つめている。美月は小さくうなずいた。
「それはあなたの落とし物。ずっと昔に失くしてしまった夢のかけら。でもそれは、消えてしまったわけじゃない。消してしまわなきゃいけないものじゃない」
青年は夜空を見上げて歌うように言った。すでに太陽は姿を隠し、空は星々が主役の舞台に変わっている。美月もまた空を見上げた。星が、輝いている。数えきれないほどの星たちが。
ああ、私は、ケーキ屋さんになりたかった。警察官になりたかった。可愛いお嫁さんになりたかった。アイドルに、スポーツ選手に、保育士に、絵本を描く人に、なりたかった。そうだ、そうだった。無数の夢を心の奥底に、何度も何度も、葬ってきた。母が、くだらないと、そう言ったから。
「どんなにお母様が大切でも、あなたはお母様じゃない。お母様もあなたじゃない。」
青年は再び美月を見つめる。
「あなたは、あなたでいいんですよ」
美月は青年を見つめ返し――目を閉じて、うなずいた。
――パシッ
母の右手が美月の頬を打つ。
「塾に行かずに、今までどこにいたの!?」
打たれた頬が熱を持った。手で頬を押さえる。でも、どうしてだろう。美月は母がもう、恐ろしいと思えなかった。
「嫌なことから逃げたって、何も解決しないの! 努力をしなきゃ勝てないの! 負けて、落伍者としてみじめな人生を送りたいの!? そうじゃないでしょう!? あなたは私の娘なのよ! あなたは人生の勝者にならなければならないの!」
母が美月の肩を掴んで大きく揺さぶる。ヒステリックな声がどこか遠く聞こえる。母はきっと気付いていないのだろう。母の言葉がもう美月の心に届かなくなったことに。これから美月はずっと、母の言葉を従順に聞くふりをして、生きていく。母の知らぬところで、母とは違う生き方を探していく。そして一人で生きることのできる年齢になったら、美月は母を捨てるのだ。自分自身を生きるために。
――母が、かわいそうだ。
美月の目から涙がこぼれる。母はこれから何年も、私に騙され、利用され、何も気付かずに過ごすのだ。裏切られることも知らずに。やがて独りになることも知らずに。母には私しかいないのに。私しか、いないのに。
「ごめんなさい、お母さん――」
涙はあふれて止まず、美月は両手で顔を覆った。母は美月を強く抱きしめる。
「わかってくれたらいいの。わかってくれたら、それでいいのよ」
母もまた、涙を流して「いいのよ」と繰り返す。心の中に硬く冷たいものが生まれたことを自覚して、美月は泣き続けた。