第七話 夢の中で少女と会話を試みる
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次にここが『夢の中』だと気付いたのは、何処かの施設の中でのことだった。
(意識ははっきりとしている……体は……動く!)
良し、と心の中でガッツポーズをする。夢の中で意識があるのがデフォルトになってきただけでなく、次第に体も動かせるようになってきていた。このままいけば『完全な明晰夢』も夢ではないかもしれない。
何故これほど意識がはっきりとしていて、体も動かせるようになってきたのかは分からない。もし原因があるとすればあの『異変』が関わっているのではないかとも思うが、意識がはっきりしているせいで『異変』が起き始めたのではないかとも思う。
(考えるのは目覚めてからで良い)
思考に耽りそうになったところで気持ちを切り替える。考察は起きてからで良いだろう。せっかく夢の中で意識があり、体の自由もあるのだ。こんなことは生まれてから一度もなかった。
今まで数多の夢を見てきた。その多くを記録し、メモを取り続けていたが、結局は夢を眺めることしか出来ていなかった。それはそれで悪くなかったし、極稀に意識があることもあったのでそれで満足していた。
(物事が長続きしない私がよく続けられたな……)
ただ、人間はどうしても欲が生まれてしまう生き物だと思う。今よりも良いものを知ってしまい、それが手に届くかもしれないとなればどうしても挑戦してしまうのではないだろうか。上手く説明出来ないが、私は心の奥底に、大多数の人と同じであることが嫌な部分がある。しかし、結局私も大勢の人と変わらないのだろうと思う。
(ここ知ってる……あーいや、ちょっと違うか?)
自由を手に入れた体で周囲を見渡しながら既視感を覚えた。
(〇〇マーケットか……)
別の風景や景色が混ざり合い多少の差異はあるものの、大昔に潰れてしまったスーパーマーケットの中だと気付いた。
私が生まれた時からあったもので、全国展開しているスーパーやデパートなどとは違い、地元に根付いた地域密着型のスーパーだった。建物は二階建てで広く、駐車場は敷地を離れたところにも複数あったはずだ。店内は食料品や日用品はもちろん、衣類や宅配サービス、小さめのフードコートやゲームコーナーまであった。
私はこのスーパーが好きだった。まだ家族の仲が良かった頃、友達がそれなりにいた頃、綺麗な思い出がここにはある。
二十代の時に地元を離れるときはそれなりに悲しい気持ちになったことを思い出す、それくらいには思い出深い場所だった。
都会から帰った時にはすでにそこは別の建物の工事中であり、都会の喧騒から逃げてきた私の心にさらに暗い何かを落としたことを覚えている。潰れてしまってからはほとんど思い出すことはなくなってしまっていた。
(夢に見なければ思い出すことはなかったかもしれないな……)
少し様子は違うが、それでももう一度ここに来ることが出来て、やはり夢は良いものだなと思った。
一つだけ残念なことがあるとすれば、今が夜だということだ。店内に人の気配はまったくなく、入り口の自動ドアの外には暗闇が広がっている。店内は照明が付いており明るいものの、人の気配がまったくしない店内は若干不気味に感じられた。
それでもやはり思い出の地では好奇心と冒険心の方が上回った。店内をブラブラと歩く。
生鮮食品のコーナーでは刺身や寿司が綺麗に並べられていた。
(美味そうだな……)
このスーパーは新鮮で良質な魚が多く、地元民に愛されている要素の一つでもあった。確か何かの記事でも見かけた気がする。大昔のネットの記事だったかな。今も潰れていなければ記事を書く機会があったのかもしれない。
(あ、これ懐かしい。もう何処にも売ってないんだよなぁ……)
少しだけ寂しい気持ちになりながらお菓子が並べられているコーナーを歩いていると、昔好きだったお菓子が並べられていることに気付く。
その中でも特に好きだったのが箱入りのチョコビスケットで、箱の中にビニールに包装されたチョコビスケットが入っている。値段も百円と手ごろでよく買っていたことを思い出す。
しかし、他の店では見かけたことがなかった。地域密着型のスーパーで、チェーン展開もしていなかったので自社独自ブランドというものはなかったと思うが……。
久々に見たことで懐かしい気持ちになっていたところでふと気付く。
――現実の世界に持ち帰ることが出来るのではないか。
最近起きている『異変』を利用すれば、夢の中で見付けたものを持ち帰ることが出来るのではないかと思った。同時に、そうそう上手くはいかないだろうとも。
夢の中で見たものや手に取ったものが現実の世界で現れる。ここ最近私に起きている不可思議な現象だ。しかし、まったく同じ形で現れるわけではない。おそらく、夢から現実に持ち帰る時――現れる時に、何らかの『変換』あるいは『最適化』が起きているのではないかと思う。
(多分そっくりそのまま持ち帰ることは出来ないんじゃないか)
そんなことを考えながら、もはや『異変』が起きるのは当然であり、それどころか利用すら考え始めていることに気付き、一人笑いそうになる。
――『夢の中の物を許可なく持ち帰ってはいけない』
「え……?」
今のは何だ。突如脳裏に浮かんだ言葉に困惑する。誰かの声が聞こえたわけでもなく、しかしその言葉は強く脳内に浮かんだまま離れない。
絶対に忘れてはいけないこと、絶対に守らなくてはならないこと。
(何か……重大なことを忘れている……気のせいじゃない……)
ここ数日こういうことがある。夢の記録を綴っている時、洗い物をしている時、仕事をしている時……ふとした瞬間に脳裏に浮かび上がるおかしな感覚。
――『お前は思い出さなくてはならない』
そんなことを言われても何を思い出せと言うんだ。何故かは分からないがその言葉に苛立ちを感じた。
「今は夢の中だッ! 邪魔をするなァッ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。現実では間違いなくこんなにも大きな声を出すことはない。何年振りだろう、ここが夢の中で良かったと思った。キレる若者ならぬ、キレる中年……言葉にすると最悪だな……。本当に夢で良かった……。
夢の時間を邪魔された憤りは思っている以上に大きかったが、私は何故かそのことに安堵した。
(落ち着こう……)
暗い店内で息を整える。
(持ち帰ってはいけない……か)
どこの誰とも知れない言葉に従うのは癪だったが、何故か無視できない自分もいた。
(それなら今ここで食べれば良いんじゃね)
考えた結果、持ち帰るのがダメならばいっそ食べてしまえば良いという結論になった。テイクアウトがダメならイートインで。子供の屁理屈レベルの言い訳だ。
(食べよう、そうしよう)
その時々で違いはあるが、これだけ意識も体の自由もあるなら味を感じることも出来るだろう。私は記憶力に自信がある方ではないが、味と匂いの記憶力には自信がある。いつでも食べた物の味を思い出すことが出来るし、匂いも一度嗅いだことはあれば思い出せる。漢字や数式も同じように記憶出来れば良かったのだが、それらの記憶力は良いとは言えなかった。
どうせなら『夢の中で味わったうえで、現実に持ち帰ることが出来れば』などと強欲な思いを抱いていると、背後からこの夢の中では一度も嗅いだことのない甘い香りが薄っすらと漂ってきた。
チョコビスケットの箱を開けようとしていたところで一端中断し振り返る。
「……………………」
少女が無言でこちらを見つめていた。
(うおおッ!?)
先ほど見た夢でも同じような感じで驚いていたが、今回は声には出さずに心の中で押しとどめることが出来た。
(だ……誰だ!?)
夢の中で人と出会うことはそこまで珍しいことではない。ただ、多くの場合は色もなくぼやけて映り、『背景』のような印象しかない。はじめて『異変』が起きた時に見た夢は結構珍しいことだった。もっともあの時は意識もおぼろげで、今とは違い、夢が自動で流れていくような感じだった。
こちらを見つめている少女は相変わらず無言のままではあるが、『背景』のような感じはない。
私は女性の見た目から年齢を予想するのが非常に苦手なのだが、着ている制服がコスプレでもない限り間違いなく年下だろう。顔立ちも十代くらいに見える。髪は黒色で、左右に下ろしてリボンで束ねている。私はよく『おさげ』と表現している髪型だ。元を知らないので断言は出来ないが、制服を着崩したりもしておらず……と思ったけどスカートが結構短い気がする。この歳になると目のやり場に困ってしまう。目線すら懲罰の対象になるんじゃないかと思うのは自意識過剰だろうか。
「それ好きなんですか?」
…………普通に話しかけられたよ。
最近までは夢の中で意識があることも少なく、他人と会話があったとしても、それは自分の意思ではなかった。
自動でコマ送りされた映像を見ているような感じで、夢自体も起きてから『ああ、夢か』と認識するようなレベルだった。夢の中では自分の意思で会話をしたことがなかったのだ。現実では当たり前のことが、夢の中では出来ずにいた。
だが今は違う。意識ははっきりとしているし体も動く。会話をすることも出来る……と思う。何か返事をしなければと気持ちでは分かっているのだが、言葉が出てこない。初めてのことで声の出し方が分からないというよりも、いきなりのことに困惑して言葉が出てこない感じだった。
「……?」
目の前の少女が少しだけ困ったような表情を見せる。
(ここは俺の夢なんだ……!)
気持ちを強く持とうと心の中で喝を入れる。一人称も普段の『私』から『俺』になる。三十代になってからは、自分のことを俺と呼ぶのが気恥ずかしくなっていた。
「あ……うん……好きだよ」
もう少しなんとかならないものか……。自分でもそう思ってしまう。
気持ちを強くもって意気揚々と返事をしたわりには弱弱しい声色だった。あと、変に間をおいて「好きだよ」なんて返したもんだから妙な感じで伝わってしまったかもしれない。しかしこれでも夢の中では初めて自分の意思で会話したわけで、そこは多めに見てほしい。
なんて言い訳めいた考えが一瞬のうちに脳内で駆け巡った。後悔を始めとしたマイナス面の感情は歳をとっても素早く過敏に反応する。そっちも鈍くなってくれると非常に助かる。
「昔よく買っててさ、久々に見て懐かしいなーって思い出してたよ」
そのままだと妙な空気になりそうだったので慌てて付け加える。歳をとってからは、相手の反応がいまいちな時はつい言葉数が多くなりがちな気がする。
「やっぱり! そうだと思いました! あ、私も好きですよ」
おじさんの心配とは裏腹に、少女は明るい声色で返してくれた。表情も明るく楽しそうだ。目の前の少女がどこのどちらさんなのか分からないままだが、こちらも明るくなり自然と会話が出来るようになる。
「えっと……それで……」
「あ、良いですよ、私は他のにします」
私が返答に困っていると少女はそう言った。
一瞬どういうことだろうと思ったが、多分譲ってくれるということだろう。少女はこのお菓子を買うつもりでここに来たものの、私が先に手に取ってしまっていたので諦めたのだろう。
実際には見ていただけなので、少しだけ申し訳ない気持ちが湧いてくる。もしかすると先ほどのやりとりも遠回しに購入の意思を聞いていたのかもしれない。
年下の少女に変な気を使わせてしまったな。ここが夢の中で良かった。これが現実でのやり取りだったら……いや現実で話しかけられることはないか。
(しかし、まいったな……)
気遣いは嬉しかったが、先ほどまではいっそここで食べてしまおうなんて思っていたわけで、さすがに第三者がいる状況でそんなことは出来ない。
夢の中なので好き勝手やっても大丈夫だろうが、それはちょっと嫌だなと思う。今まで数多くの夢を見てきたが、夢の中の私はある程度常識的な行動を心掛けていたような気がする。もちろん中には気の赴くままやりたい放題している夢もあったが、それは結構レアなケースだったりする。
(何故かは分からないけど、夢の中で好き勝手し続けていれば『取り返しのつかない』ことになる気がするんだよな……)
少女が登場したことで少しだけ冷静になった。人気がないとはいえ、スーパーの中で会計前の商品を口にするなんてのは常識的とは言えないだろう。現実世界だと……今の時代ならそういうことを率先して実行し、あまつさえそれをネット上にアップロードする輩もいるが……。流石にそんな輩と同じにはなりたくない。
ちなみに少女はこちらに背を向けてお菓子を選んでいる。細々としたお菓子を持つ手が少し辛そうだ。私はそばにあったお菓子コーナー用のカゴを手に取り少女に手渡した。
「これ使うと良いよ、そんなに重くはないけど持ち辛いよね」
「あ……すいません、ありがとうございます!」
少女は少しだけ驚いた様子だったが、すぐに笑顔になりカゴを受け取るとそのまま中にお菓子を入れる。安価なお菓子が多いような気がする。
「結構あるね」
「なんかついついどれも欲しくなって」
「分かるよ、安いやつとかポイポイ入れちゃうよね」
「はい、お兄さんはそれだけですか?」
お兄さん。そう呼ばれて、この夢が始まってから自分の姿を確認していないことに気付く。お兄さんなんて呼ばれちゃうってことは、この夢の中では若い時の姿なのだろうか。いや、気が利く子だから、明らかにおじさんに見えるが、失礼にならないようにお兄さんと呼んでくれたのかもしれない。どちらにせよ、悪い気分はしない。
「うーん、そうだねー……あ、もしかしてなんだけど、これ欲しかったかな?」
初めは店の中を見て回るのが目的だったが、今は思わぬ人物の登場で、会話の方が目的になりつつあった。
夢の中のどこに思い出の品があり、どこまで当時を再現出来ているのかといった興味よりも、今は目の前の少女とどこまで会話が出来るのか、あるいは続けられるのかといった興味の方が大きくなっていた。
夢の中である以上、急に目覚めることもあるだろうし、突然少女が意味不明な行動を取る可能性もあるので、出来るうちに試したいのだ。
「あー……それ好きなんですけど、ちょっと高いかなーって……」
(百円ちょっとだったと思うけど……)
なんて思ったが、少女からすれば高いのかもしれない。子供の頃に、貰った百円で十円のお菓子を大量に買って帰ると、母親に盗難を疑われたことを思い出した。
(というか普通に会話出来てるな)
夢の中であるにも関わらず会話が成立していることに感動する。現実では二倍近く歳の離れた少女と会話することなんてないだけに貴重な経験だ。あったとしても挨拶や簡単な会話を少しして終わりだろう。あと、夢の中はどうしても曖昧なところや意味不明なところが多く、まともな会話を続けられているのも奇跡に近い。
(意識がはっきりしていて体を動かせるならここまで出来るのか)
夢について調べているとき、『明晰夢』関連の情報は多かった。どうすれば見られるかといった記事はかなり詳細な方法が載っていることもあった。
実際にこうして明晰夢を体験してみると、確かにこれは再現したくなるなと思った。
夢の中での可能性が、やれることがぐっと広がったと思う。もっとも、次に夢を見た時に同じようにいくかは分からないが。
しかし、そうなってくると色々と試したくなってしまう。とはいえ、常識的な範囲でだ。なんとなく目の前の少女に幻滅されるようなことはしたくない。
「そういえば気になってたんだけどさ」
「はい、どうかしましたか?」
「ここさぁ、他に人居ないよね? 店員さんもお客さんも」
「え……」
少女がきょろきょろと辺りを見渡す。
「あれ……なんで!? 私が来た時は居ましたよ!?」
「え、マジ?」
(どういうことだ……?)
初めは、少女と私で見えているものが違うのかと思った。私には人の気配がしない店内も、少女には客も店員もいる営業中の店内に見えているのではないかと。しかし、話を聞く限りではどうも違うらしい。
「と……とりあえず落ち着こうか」
「そ……そうですね」
意外とあっさりと落ち着いてくれた。しかしどうしたものかと思っていると、遠くから『それ』が近づいてきているのを感じた。
――目覚めの時だ。
(おいおい……ここで終わりかよ……良いとこなのに!)
そう思った直後、一気に世界の崩壊が始まる。
まず世界の全ての色が一気に白黒に変わる。白と黒のモザイクとなった世界から白の部分が崩れ落ちていく。落ちていく途中でそれらはパラパラと粉になり消えていく。残った黒の部分はどろどろと溶け出し世界を埋め尽くしていった。
少女との会話も弾み、最後に謎を残したままで不完全燃焼感はあったものの、それでも満足感の方が上回った。
(起きたらすぐ記録を取らないとな)
出来れば前みたいに起きたら寝汗をかいていたなんてのはやめてほしい。記憶が怪しいが、この夢の前におかしなことがあったような気もするし……。夢は終わりに向かいつつあり、私はすでに起きてからのことを考え始めていた。
「……さ……ん……お兄…さ……ん!」
すでに視界は完全に黒に染まり何も見えなくなっていたが、遠くで少女の声がした。
(どうしたんだ、まだ夢は続いているのか? 俺は今どうなっているんだ?)
なにか返事をしたかったが、体の自由はなくなってしまったのか声を出すことが出来なかった。
(ごめん、もうちょっと一緒に居たかったけど無理みたいだ。でも楽しかった、ありがとう)
ほんの少しの間ではあったが私にはとても貴重な体験であり、良い思い出であった。出来れば最後は綺麗に終わりたかったが、いつも終わりは唐突にやってくる。だからこそせめて心の中だけでも素直な気持ちを伝えておく。
その気持ちが伝わったかは分からないが、少女から続けて声が発せられることはなかった。
その後少しずつ黒くどろどろしたものが私と溶け合うような感触とともに意識は薄れていった。