5.意外な出会い
こちらに来て早一日が経った。古代のメキシコにタイムスリップというとんでもファンタジーを、私は既に受け入れてしまっていた。
初めは現実離れしすぎた光景に混乱して気づかなかったが、どうやらこのラカムハという国は現代でいうところのパレンケそのもののようだ。宮殿の場所も全く同じで、むしろモノクロの世界に当時の彩りが添えられた分ラッキーな気さえしてくる。我ながら物凄くポジティブだ。そして順応力が高い。即戦力を求めている企業があればぜひ雇ってほしい。
ここで生活するにあたり、私はヨウルさんからのお達しで南の部屋を与えられた。貴族が使うという格式高い一室を貰ったけれど、なんていうかな……まぁ薄々感づいてはいたんだけど、石、なのよね……ベッドも床も机も。おかげで昨日は何度も目が覚めてしまい、ひどい寝不足になった。
しかし、これって本当にタイムスリップなのよね……。
実のところ、朝起きたらこの悪夢から解放されていないかな、という希望をほんの一握り抱いていた。でも、やっぱり状況は何も変わっていなくて、私は今も見慣れない石室にいる。これが現実なんだと、嫌でも思い知らされた。
ここに来てから、気づいたことが幾つかある。
まず、女性がすごく恥ずかしがり屋だということ。現代では日本人はシャイだ何だと言われるけれど、このラカムハの女性はそれの比ではない。男性が前から来るのがわかると、来た道を急いで引き返すほどに恥ずかしがり屋なのだ。もちろん人にもよるし、家族や友人と一緒にいる時は別だけど、一人で外を歩いている女の人はまず見かけない。
そして、この国の人はかなりアウトドアだ。王族や貴族が生活するこの宮殿にすら天井がない場所があって、天気の良い日中は外で球技や散歩を楽しむのだという。息の詰まりそうな現代の生活からは考えられないまったりスローライフだ。
そして驚くことに、主食がトウモロコシである。これにはさすがに嘘だと笑ってしまったけれど、みんなが真面目に口を揃えて言うものだから、否が応でも信じざるを得なかった。トウモロコシって、一体どれくらい栄養価あるのかしら……古代は品種改良もされてないはずだから、不味くてパサパサしてたらやだなぁ。なんて贅沢、今は言ってられないんだけど。
そういえば、今日は使用人の方と会うことになっていた。王様であるヨウルさんが信頼を寄せるほどの人らしい。セバスチャンと呼びたくなるような、朗らかなおじいちゃん執事なのかな? それとも、テキパキと仕事を熟すメイドさん? なんだか一気にお姫様になった気分だ。
わくわくしながら待っていると、コツ、コツと靴を鳴らす音が廊下に響いた。来た!
失礼します、と慇懃な挨拶をした人物に、思わずげぇっ、とカエルが潰れたような声が飛び出た。
「な、な、なんでですか!?」
「馬鹿野郎、それはこっちの台詞だ」
嘘だ……と呟くと、やって来た使用人――フラカンさんが、不服そうな顔で睨みつけてきた。うっ、昨日のトラウマが……シャツとデニムを着ているだけで謂れもない嫌疑をかけられ、凄まれ、殺されそうになった、あの思い出……!
あぁ、どうしよう……! もしかして、この人が私のお世話係? 良い思い出がないので変えてほしいって、ダメ元でヨウルさんに伝えてみようかな!?
「おい、お前また何か失礼なことでも考えてるだろ」
「い、いえ、滅相もございません……!」
「言っとくけどな、俺だってお前みたいなどこの馬の骨かもわからねぇドブネズミの面倒なんて見たくねぇんだ。だが、これは王からのお申しつけだ。王命は絶対だ、いいな」
「は、はい……」
ドブネズミという言葉にショックを受けながらも、なかなか言い得て妙だと納得した。
私だって好きでこんな所に来たわけじゃないけれど、それはフラカンさんだって一緒、なのよね……。それにこの人は会った時から目をハートにしてヨウルさんを見ていたし、その忠誠心はきっと本物だ。見た目はヤがつくような人だけど、もし私がこの人から信用できる点を見出すとしたら、そこだ。
姿勢を正してフラカンさんを見上げる。意志の強い眼差しと視線を交え、「よろしくお願いします」とお辞儀をすると、満足そうに頷いてくれた。
「ツァクブ」
「はい?」
「お前の名だろう。ツァクブ」
……あぁ、そういえば、すっかり忘れていたけど、なぜかここの人はみんな私のことをツァクブって呼ぶんだった。ラカムハの言葉にはない発音なのかしら。私もこんなことになるなんて思いもしなかったし、邪魔臭いからそのまま放っておいたんだけど、まさかそれが定着しちゃうなんてね。
「……はい、ツァクブです」
「出身は……その……」
「出身?」
すると、今までの快活で堂々とした口振りとは一変し、フラカンさんは何やらもごもごとまごついた。首を傾げながら「東京ですが」と答えると、そうだ、と一言だけ返答して、また口を噤んだ。
「あー……何というか、頑張れよ、明後日」
「え? どういう意味ですか?」
「明後日、王族の方々や諸侯が集まる定例の儀があるだろ。王がお力添えはしてくださると思うが、その……もし暴力沙汰になった時は、極力助けてやるからよ」
「えっ!? 暴力沙汰!?」
なんで!? やだやだ! 王族の人がいる場なんだからもっと粛々とした儀式なんじゃないの!?
そんな私の困惑と不安を見透かしたように、フラカンさんはポンッと肩に手を置き励ましてきた。
「いやいや、どういうことですか!? ちゃんと守ってくださいね、王命ですよね……!?」
「当たり前だ。王の命令だけは、俺は神に誓って守る」
定例の儀に出るといっても、私は末席の末席でしょ……? なんだこいつ、くらいの顔はされるかもしれないけど、なぜそれが暴力沙汰に発展するのかさっぱりだわ。
冗談なのか真面目なのかわからないフラカンさんの態度に翻弄されながらも、私は彼が持って来てくれた昼食のトウモロコシを平らげ、ベッドに横になった。すぐに「外に出て少しは体を動かせ!」と叱咤されたが、暑いし知らない人ばかりだし怖いし、絶対嫌だと断った。インドア万歳。
▽
翌日、お昼過ぎまで自室でダラダラとしていると、さすがにカンカンになったフラカンさんに怒鳴られた。カンカンになったフラカンさんって、ちょっと間抜けな響きよね。そんなことを考えて笑いを堪えていると、またおっかない目つきで睨まれる。
仕方がない。渋々だったが、露出度の高い民族着に着替えて外に出てみることにした。
古代といえど、やはりここはメキシコ。カラッとした風と容赦なく照りつける太陽に照らされ、宮殿から一歩出た途端にやる気が失せ、Uターンしそうになった。しかし鬼軍曹のフラカンさんが許してくれるはずもなく、私は子犬のように首根っこを掴まれ、強制的にアウトドア族の仲間入りをする羽目になった。
「あの、これは一体どこに向かっているんでしょうか」
「競技場だ」
競技場、といえば、現代では野球やサッカーをするような場所だ。日本でも昔のお公家さんは蹴鞠を楽しんでいたようだけど、このラカムハでもそういうスポーツが盛んに行われていたのだろうか。
考え込んでいると、フラカンさんがピタリと足を止め、突然手を離した。うわっ! と思わず尻餅をつきかけたが、なんとか危機一髪のところで体勢を立て直した。ちょっと、今転んでたら絶対捻挫してたわ! 本当、この人私を犬かネズミか何かとでも思ってるんじゃないの!?
文句の一つでも言ってやろうと思った矢先、彼はハッと何かに気がつくと、素早く居住まいを正し、恭しく傅いた。その姿勢には見覚えがあった。ヨウルさんに初めて会った時も、こんな風に頭を垂れていたっけ……?
「フラカン、久しぶりだな」
振り向くと、私よりもうんと背の低い、色白の男の子が立っていた。まだ声変わりもしていないほど幼い子だったけれど、豊かな黒髪と切れ長の目から利発そうな印象を受けた。
「元気にしていたか」
「はい。アハウもお変わりないようで、安心致しました」
アハウ、と呼ばれた男の子は、「あぁ」と短く返事をして、こちらをちらりと一瞥した。
昨日教えてもらったけれど、ここでは王に限らず王族や貴族を敬ってアハウと呼ぶらしい。きっとこの子もそれなりに身分が高い子なのだろう。
「……この者は? 見慣れない顔だな」
疑心の混じった視線を向けられる。どうすれば良いかわからず、とりあえずフラカンさんを真似て片膝をつき、頭を垂れた。
「申し遅れました。私は、ツァクブと申します。一昨日こちらに到着し、ヨウル様の下でお世話になっております」
何の躊躇いもなく、するりとその言葉が出てきたことに自分でも驚いた。フラカンさんも一瞬目を見張って私を見たが、すぐにさっと表情を変えて続けた。
「実は、王様から彼女の世話を仰せつかっております」
「王が?」
「左様で。なんでも、始まりの地から来た姫だとか……」
ちょっと、姫の部分を強調して言わないでよ。というか、そんな話一言も聞いてないんだけど!
若干笑いを堪えているフラカンさんをじろりと威嚇すると、主人の手前もあったのか珍しく黙りこくり、じっと男の子の返答を待っていた。
「……そうか、兄上がそのようなことを」
……兄上?
そろそろと顔を上げて見ると、男の子は今にも泣きだしそうな表情で、どこか虚空を見つめていた。フラカンさんが私の足を蹴って顔を下げるように促してきたけれど、私は涙を堪えたままの男の子からずっと目が離せなかった。
「あぁ、良い。面を上げよ」
「アハウ……」
「すまない、見苦しい姿を見せたな。私は王の異父兄弟で、名をパカルという。貴殿を歓迎しよう」
「は、はい、よろし…………え!?」
ぱ、パパパパ、パカル!? ぎゃあっ、どうしよう! とんでもなく凄い人に会っちゃった!?
バクバクと急激に心拍が上がり、声にならない悲鳴を叫んだ。朝食のコーンも口から飛び出しそうになったが、すんでのところでなんとか耐えた。
ど、どうしよう……今ここに優太がいたら大喜びだっただろうに!
驚きのあまり体が硬直し、妙な沈黙が生まれてしまった。これ以上不審がられるのは御免被りたいので、パカルさんの握手にぎこちなく応じる。
この小さな男の子が、後にマヤの歴史上最も偉大な王と呼ばれることになるとはね……もしかしなくても私、今歴史上の物凄い人と会ってるんじゃない? これは帰ってから土産話にしよっと……。