3.パレンケ遺跡(2)
あ、あれ……? 私がいたパレンケは、こんなに色鮮やかじゃなかったはず……王宮だってもっと石が剥き出して、ボロボロの遺跡だったのに……。
わけがわからないこの状況を一言で喩えるならば、そう……
「ここどこ!?」
現状が未だに掴めなかったので、とりあえず通りかかった人に道を尋ねようと決心した時、ちょうど建物から一人の男性が出てくるのが見えた。が、その全身を見て、思わずわっと声が出た。
彼は、服を着ていなかった。いや、言い方が悪い。裸体。そう、ほぼ裸体に近い姿だった。その上から奇抜な民族衣装を纏い、冗談みたいに巨大なピアスをつけていた。間違いなくこのご時世ではご法度レベルだが、浅黒い体の至るところに生々しい傷痕を残し、鬼のような形相で歩いて行くその姿は、まるで教科書で見た古代の戦士のようでもあった。
……どこの国の人かしら。よくあんな格好で出歩けるわね。
失礼を承知で強面のお兄さんをじろじろと眺めていると、不意にパチリと目が合った。彼も眉間に皺を寄せながら、こちらの頭の天辺から足の爪先までを観察している。
正直一番避けたいケースが最初に来てしまったけれど、辺りにはなぜか人っ子一人いないため、背に腹は代えられない。意を決して彼に近づいた。
「あの、すみません……ここは、一体どこでしょうか……?」
「……あぁ?」
目は口ほどにものを言うと、先人はよく言ったものだ。「こいつは馬鹿か?」と、奇異な物を見るかのような視線がぐさぐさと突き刺さる。そりゃまあ、日本にいながら「ここはどこだ」と聞いてくる人がいれば、確かに変人か厄介者扱いしてしまいそうなものよね……。けれど、こちらも決してふざけているわけではない。至って真剣に聞いているのだ。
思い切って顔を上げ、お兄さんの目をしっかりと見つめた。
「私、パレンケの王宮にいたんですけど、気がついたらなぜかここにいたんです」
「パレンケだぁ……? そんな所は聞いたことがない。ここはラカムハだ」
「ラカ、ムハ……?」
何度か復唱してみたけれど、その単語にはまったく耳馴染みがなかった。
恐る恐る後方を振り返った。損傷だらけだったはずの王宮は赤々と輝き、豪奢な彫刻と鮮やかな壁画が巨壁を彩っている。王宮の斜向かいに存在していたパカル王の神殿は、嘘のように忽然と姿を消していた。
半裸の男性、派手な王宮、切り拓かれた森林、どこからか聴こえてくる笛の音……。どこを切り取っても、私の知っているパレンケの景色ではなかった。
「……あの、今って西暦何年ですか」
どうか、悪い夢であってほしい。こんなものはでまかせだと、大掛かりな演出だと、そう真実を突きつけて真っ向から否定してほしい。
一筋の淡い期待を寄せたそんな問いかけに、お兄さんは絶望的な答えを返した。
「西暦って何だ?」
さぁっと血の気が引いていくのがわかった。
西暦が通じない……? そんな馬鹿みたいな話、ふざけてるとしか思えない。
そう頭では理解しつつも、心底胡乱げな様子でこちらを見るお兄さんの目は本気だった。
「日付っ……、こ、暦はどうなってますか」
「暦? あー、今日は2オクくらいか」
「2……オク?」
「なんだお前、暦の数え方がわかんねぇのか? 教養のないガキが宮殿近くをほっつき歩いてるとはなぁ」
聞いたこともない言葉に、ぐらぐらと目眩がした。その一方で、だんだんと不気味さを帯びてきた現状をどこか冷静に捉える自分がいた。
脳内に一つの可能性が浮上する。
――タイムスリップ。
だけどそれを受け入れるには、残酷ともいえる、あまりにも非現実的な展開を享受しなければならない。そんな勇気は、私にはなかった。
「……しかしお前、変な格好をしているな」
「え?」
「怪しい。一体どこから来た」
「えぇっ!? ちょ、ちょっと待ってください!」
もしかして私、疑われてる!? 少し、いやかなりショックだ……! 「ほぼ裸体で堂々と出歩くあなたの方がよっぽど怪しい」だなんて、強面のこのお兄さんには口が裂けても言えない……!
「なんだその目は! このガキッ!」
「ぎゃあっ、痛い痛い! 暴力反対!!」
「テメェ! 俺を侮辱しやがって!」
「ま、まだ何も言ってないじゃないですか!!」
やばいやばいやばい……! このお兄さん、見かけ通りかなり乱暴な人だった……!
本気で死の危険を感じた私は、お兄さんから繰り出されるパンチを必死で避けつつ、何とか逃げる機会を窺った。
しかし、悲しいかな。現実はそう上手くはいかないらしい。
どこからともなく一連の騒ぎを聞きつけた野次馬がぞろぞろと集まって来て、お兄さんの怒りがやっと収まった頃には、奇抜な格好をした人達にすっかり囲まれてしまっていた。
「お前ら、見せモンじゃねーぞ!!」
「なぁんだ、そのヘンテコな女とどっちが勝つか賭けてたのになぁ」
「オレはもちろんフラカンが勝つと思ってたぜ!」
「俺は女だな。あのイカレ女が勝った方がおもしれぇじゃねぇか」
ゲラゲラと大笑いする輩、興が冷めたと言わんばかりに帰っていく連中、好奇心に満ちた目でこちらを見定める通行人……人によって反応は様々だけど、決して気持ちの良い視線ではなかった。
「ひ、他人の一大事を暇潰しに使うなんて……」
「酷い、ってか? それならお前、まずはその変な格好をどうにかしな。それじゃあ、どうぞ疑ってくださいと公言してるようなもんだぜ」
改めて自分の服を見る。長袖の白いシャツに紺のデニム、使い古したスニーカー。……どう見たって一般的な服装だと思うんだけど。
もう一度お兄さんに抗議しかけたその時、騒々しいこの場に不相応な、凛とした声が響いた。
「静粛に。これは一体何の騒ぎですか?」
一瞬にして空気が変わったのが、肌で感じられた。
数人の巨漢を引き連れて現れたのは、小麦肌の精悍な顔立ちの男の子だった。まだあどけなさの残る風貌からして、私より少し上くらいだろうか。上半身はやはりなぜか裸体に近かったけど、煌びやかなアクセサリーをジャラジャラと身につけているあたり、相当やんごとなき御仁なのかもしれない。
呆然とする私を他所に、フラカンと呼ばれたお兄さんはすぐさま身を屈ませ、頭を垂れた。さっきまでの下卑た振る舞いなど微塵も感じさせない切り替えの早さにぎょっとしたのも束の間、今まで野次馬根性丸出しだった連中も同じように、年端もいかないその男の子に恭しく傅いた。
「アハウ! これには事情がありまして……!」
「フラカン、説明を」
「はい、アハウ。先程この怪しい女が宮殿の周りを徘徊しているのを見つけ、捕らえた次第でございます」
「……なるほど、これは確かに怪しい」
今度はアハウと呼ばれた男の子と視線がかち合う。ついさっきフラカンというお兄さんにも向けられたものと全く同じ、懐疑的な目だった。……んん? なんか、物凄く嫌な予感がする。
「失礼ですが、お名前をお聞きしても?」
「えっ、と……鷹部です。鷹部ユリ」
「タ、クべ? この辺りでは聞かない名だ。ひょっとすると、遠い所からおいでで?」
「は、はい。日本から来ました」
ニホン、と男の子は繰り返した。近くでまじまじと見てみると、日に焼けた小麦肌と垂れた眦、男性らしく高く大きな鼻が何ともエキゾチックで魅力的だ。思案げな真剣な眼差しにさえ美しさを感じる。
思わぬ胸キュン展開にドキドキしていると、隣からフラカンさんの焼けるようのギラついた視線を感じ、違う意味でドキドキが倍増した。あ、危ない。油断は禁物よね。
「あの、私本当に怪しい者じゃないんです。寧ろ私もなんでこんな所にいるのかよくわからなくて」
「そうですね……あなたが怪しいかどうかは私が決めますので」
「は、はい」
「ちょっと牢まで来ていただいても?」
え!? そんな刑事ドラマよろしく「ちょっと署まで来てもらおうか」みたいなノリで、私の人生決まっちゃうんですか!?
愕然としているであろう私を見て、フラカンさんはニタニタと、それはそれは楽しげな笑みを零していた。