2.パレンケ遺跡(1)
太陽がとっくに登りきった頃、静かなホテルの一室に怒号が響いていた。
「優太、起きてー! もう出る時間だよー!!」
返事のない隣室の扉を叩きながら、歯磨きと化粧を同時進行で行う。本来なら7時には起きて朝食に与り、ゆっくり支度をしてチェックアウトする予定だった。
……はず、なのだけど。
「10時ぃ!? なんでもっと早く起こしてくれないんだよ!!」
「私も寝坊したの! アラームくらい自分でつけときなさいよ!」
私が起床した時には、既に9時を回っていた。我ながら二日目でこれでは先が思いやられてしまう……。
目をひん剥かせる優太と何とか用意を済ませ、ホテルの廊下をバタバタと爆走した。朝ご飯? そんなものはもちろん気にしている暇はなかった。
私達のあまりの剣幕にびっくりしたのか、先に並んでいた英国風の紳士がロビーで順番を譲ってくれたおかげで、早々にチェックアウトを終えられた。若干引き気味だったけれど、あの紳士には感謝してもしきれない。
こんなにも急いでホテルを発つ理由。簡潔に言うと、ここから次の目的地までが難所だからだ。
これからまた飛行機で南部のビヤエルモサ空港に行き、そこから長距離バスに揺られ、パレンケへと向かう。かなりの体力と時間が必要になるはずなので、念のため最低限の物を買っておこうと提案した。
私はパンなどの軽食と水、それから救急用品を近くのコンビニで購入した。遺跡を歩き回って怪我でもしたら大変だし、何よりやはり朝ご飯が食べられないのは後々響いてくるだろう。断じて食い意地が張っているわけではない。
「優太は何買ったの?」
「俺? 古代文明の本と、古代の儀式で使われてた儀仗のレプリカ」
「げぇっ、なんでまたそんなわけわかんない物買ったのよ」
「わ、わけわかんないって何だよ! どれも甲乙つけられないくらい重要なんだぞ!」
優太は茹でダコのように真っ赤な顔で怒った。
そうは言ってもねぇ、相変わらずチョイスが独特すぎるのよね……、と頭を抱える。
「……いろいろ聞きたいことはあるけど、ひとまず寝癖が炸裂したその頭をどうにかして。さっきから通り過ぎる人達に見られて恥ずかしいのよ」
「寝癖っ!?」
そういうことは早く言ってくれよ、と今度はせっせと髪の毛を押さえつける幼馴染を横目に、軽く溜息をついた。歴史に関することにはとかく煩いのに、他のことには全く無頓着なんだから……。
買い物を済ませた私達は、1時間半のフライトを経てビヤエルモサに到着した。州都と聞いてガヤガヤした街を想像していたのだけど、存外綺麗な街並みに驚いてしまった。
けれど、残念ながらここは単なる通過点。すぐに発たなければならない。気まぐれにやって来るバスに乗り込むと、近くにアルメカの遺跡があるのに……、と優太が子どものようにむくれていた。きっとパレンケに行く道中なので寄って行くべきなんだろうなぁ、と思いながら、ビヤエルモサの遺跡群に心の中で謝る。ごめんね、今度来た時はちゃんと寄るからね。
そして、長距離バスに揺られること数時間。漸くパレンケに着いた時、既にラテンの真っ赤な太陽は傾き始めていた。
パレンケは鬱蒼とした密林に佇む静かな古代都市で、広大な草原に石造りのピラミッドが幾つも点在していた。中でも有名なのは、パカル王の王陵でもある碑文の神殿。立ち入りが禁止されているにも関わらず、マヤの定説を覆した神殿を一目見ようと、国内外から数多くの観光客が訪れる。
遺跡の入口付近。いかにもジャングルを切り拓いたかのような跡地に、ぽつんと神殿が建っていた。なんだが不気味なその光景に、思わず優太の袖をくいっと引っ張る。
「どうした?」
「ごめん、ちょっと怖くて……あれは何……?」
「あぁ、あれ。髑髏の神殿だよ」
「ど、髑髏!?」
な、な、なんでまたそんな恐ろしい名前なの……!? まさか、昔はあそこで人体実験とか処刑が行われていたとか言うんじゃないでしょうね……。
ぞぞぞっと鳥肌が立ち、その場から一歩後退ると、優太が呆れた顔で私を見やった。
「あのなぁ、どんな想像したのかは大体察しがつくけど、そんな変な場所じゃないって。うさぎの骸骨のレリーフがあったから髑髏の神殿って言うんだよ」
「うさぎ……?」
一気に脱力する。あぁ、良かった……何とも可愛らしい由来で安心した。一瞬、怨霊とか出てきたらどうしようかと思ったけど、また馬鹿にされそうだから黙っておこう。
けれど、ちょうど優太が何かに気づき、あっと声を上げた。
「あそこに見えるのが、うさぎの髑髏だよ」
優太の視線を追うと、壁に髑髏模様の装飾が彫られていた。でも、どう見てもうさぎには見えない。もっと耳が長かったなら納得できるけれど。
「理解できないって顔だな」
「だって、ちょっと出っ歯の骸骨ってだけで、全然うさぎじゃないんだもの」
「さすがユリ、ご名答!」
「は……?」
「神殿の名前は後世の人間が勝手に決めただけだよ。出っ歯だからうさぎに違いない、ってね」
今度はズッコケそうになった。そんな適当で良いのかと思ったけれど、パレンケに関してはまだわからないことも多いようで、とりあえず今は仮の名前ということなのかもしれない。
髑髏の神殿を粗方見終わると、思っていたよりも広く、十分な大きさを誇る遺跡だということがわかった。でも実際はこの中ではまだ小振りな方だというから、過去のパレンケの繁栄っぷりがひしひしと伝わってきた。
次に向かったのは、他の遺跡よりも一際目立つ壮大な神殿だった。九段もの基壇に大きな石室が築かれており、発見当初は王墓があったらしい。そこにパカル王が眠っていたのだと、直感的に感じた。
「凄いね、やっぱりこれだけ他と違うみたい」
「あぁ、存在感があるよな。この碑文の神殿はパカル王の頃から建設が進められて、息子の代に完成したんだってさ」
じゃあ、パカル王は自分が建てた神殿の完成形を見ることなく亡くなったのね。エジプトのファラオも生前からピラミッドを建設していたらしいけど、私だったら自分のお墓を見れないのはちょっと残念だな。
碑文の神殿の隣には、小振りの遺跡が二つ並んでいた。厳かに佇むその姿はどこか神秘的で、初めて見たのになぜか胸がぎゅっと締めつけられる。
「優太、この遺跡は……?」
「これ? 赤の女王の神殿だよ」
赤の女王、と囁くように反芻する。碑文の神殿よりは劣るものの、見上げるほどに立派な神殿だ。
「赤の女王は、確かパカル王の奥さんだったよね」
「あぁ。ただ、彼女も情報が少ない人で、パレンケ発祥の地から嫁いできたこと、パカル王との間に少なくとも二人の王子をもうけたことくらいしか判明してないんだよな」
そんな謎多き女王の石室を見ようと、神殿の狭い廊下には観光客がぎゅうぎゅうに詰めかけていた。この神殿は出入りが自由らしい。
女王が眠っていた部屋は金網のバリケードが張られていたので、隙間から中を覗いてみる。噂に聞いていた通り、酸化した辰砂で石棺が真っ赤に彩色されており、なるほどこれは〝赤の女王〟だと思った。
「辰砂って、賢者の石とも呼ばれてる鉱物だよね?」
昔読んだ物語に出てきたっけ。あらゆる金属を黄金に変え、飲めば不老不死になる水を作り出すという伝説の石。物語の中では、その石を巡って死闘が繰り広げられたほどだった。
「あぁ、錬金術でできる石だっけ?」
「そんな貴重な物をふんだんに使って埋葬されるなんて、赤の女王はよっぽど愛されてたのね」
「俺もそう思う。それに彼女が嫁いできた頃のパレンケは、大国カラクムルに破れて弱体化していた時期だったんだ。そんな中、パレンケの原点ともいえる土地から姫を連れてきたということは、世間のパカル王への期待も大きかったんじゃないかな」
カラクムルは古代メキシコにおける大都市国家で、当時はマヤ地域で圧倒的な勢力を誇っていたらしい。
そんな大国からの侵略で亡国の危機に瀕していたパレンケの民は、藁にもすがる思いで原始王朝の流れを汲む赤の女王とその大王に、国の命運を託したのかもしれない。
「パカル王は12歳で即位してから、次々と近隣諸国を破ってパレンケを安定に導いたんだ」
「じゅ、12歳で……!?」
12歳ってことは、現代だと小学6年生……!?
自分の腕をさすりながら考える。小学6年生ってカブトムシや秘密基地に夢中になる年頃じゃない……。そんなに幼くして国の明日を任された末、見事に復興させたんだから、パカル王は本当に立派な君主だったのね……絶対ストレスでハゲていたに違いない。
「とんでもない偉業だよな。彼の治世である7世紀に、パレンケは最盛期を迎えたんだ」
「そうだったの……だから最も偉大な王って呼ばれてるのね」
7世紀というと、日本では飛鳥時代あたりだろうか。十七条憲法、遣唐使、大化の改新……遠い昔に習った日本史のおじいちゃん先生の言葉が、頭の端を行ったり来たりする。
日本がこれから国を興そうと奮闘している時、地球の裏側のパレンケでは黄金期真っ只中だったということね。
「もちろん、母親の摂政政治のおかげもあるはずだ。だけど、栄華を誇ったのもたった二代だけで、8世紀に入るとパレンケはどんどん衰退していって、終いには周辺一帯が滅びてしまったんだ」
「一帯が? どうして……?」
「大きな政争や気候変動、外敵の襲撃があったとも言われてるけど、はっきりとした要因は未だによくわかってない」
優太は神妙な顔つきで思案していた。
確かに、マヤの人々は天体観測や暦の作成を行い、0の概念も既に認識していたというから、これだけ栄華を極めた文明全体が急に消えてしまった理由は気になる。
政争、気候変動、外敵の襲撃……いろいろな要因が考えられるんだろうけど、それにしてもどれもイマイチピンと来ないのはなぜだろう。
「外敵の侵入って、どのくらいのものだったの?」
「それが不明なんだ。南方の国家が他民族の侵略に遭っていた可能性はあるが、俺にはこの崩壊が、そこに端を発しているとは考えられない。文禄・慶長の役みたいに、外国にまで影響を及ぼす長期的な戦争だったならまだしも」
まぁ、そうよね。たとえ他民族の来襲で一国が亡んだとしても、近隣諸国が次々にドミノ倒しに潰れていくなんて稀でしょう。仮に南方で争いがあったとしても、彼らがここを横断したという確証もないようだし。
となると、同じような状況――例えば旱魃、疫病なんかに一気に陥ったと考えるのが、今のところ最も理に適っているかもしれない。
それは優太も同じ意見だった。連鎖的に多くの問題が起こったとする説が現状では一般的で、はっきりと断言できる証拠がない以上、考古学者の今後の発見と研究に期待するしかないとも。こうした情報の少なさが、マヤをミステリーや都市伝説と結びつけるのだろう。
「それにしても、パレンケって意外と綺麗な所なのね。もっと古臭くてボロボロなのかと思った」
「この辺りは生い茂るジャングルにずっと隠されていたからな。800年も誰の目にも触れることなく眠り続けていたから、綺麗な状態で遺跡が残ってるんだよ」
髑髏の神殿を覆い隠すように伸びた密林を思い出し、一人で納得する。
同域の戦争に加え、スペインの植民政策という激動の時代があったにも関わらず、パレンケ遺跡は1200年の時を経てもなお雄渾な姿を保ったままだ。逞しく群生するこの地の木々に守られ、何百年も誰の目にも触れることのなかった古代都市……その優美さが、訪れる見物客を魅了し続ける。
赤の女王の神殿を満喫して戻ると、斜向かいにもう一つ大きな遺跡があることに気がついた。高い塔を擁し、今まで見てきたような神殿とはまた違う雰囲気だ。おまけに損傷が激しく、パカル王の碑文の神殿とは対照的だった。
「ねぇ、優太。あれは何?」
「王宮だよ。パレンケの王族や貴族があそこで生活していたらしい」
「王宮……随分傷んじゃってるのね」
「自然崩壊や研究調査のために壁を取り壊したのが原因だな。故意に破壊された可能性もあるけど」
優太曰く、パレンケの王朝は歴史を記録したレリーフを壁に刻む習慣があったのだという。石碑を残す習慣が元々なかったのか、それとも後に削られてしまったのか。
そう言われてみれば、王宮の壁にヒエログリフのようなものがいくつも彫られている。その形には強い既視感があり、暫く逡巡してみると、露天商で買った指輪の内側に描かれているものと酷似していた。
この王宮もやはり人気があるようで、途絶えることなく人の波が押し寄せていた。逸れないように優太の後を追い、周囲をじっくり観察していると、廊下に出たところでふと違和感を覚えた。
天井が独特なアーチを描いている。綺麗な円形状ではなく、世にも珍しい三角形なのだ。そうか、これがマヤ遺跡の特徴で、優太がマヤ・アーチと呼んでいたものだったのね。ここは芸術や建築学的にも評価の高い場所なのだとか。
人流に沿って進んでいくと、奥には大きな塔が建っていた。外から見えていたものだ。物見櫓のように見えるけれど、こんな建物の中央部にあるのはどうも変だ。
王宮内には中庭や教会の懺悔室のような部屋も存在し、そこかしこに繊細なレリーフが彫られていた。意図や目的のよく分からない部屋もあったので、優太に聞いてみようと思い、パッと後ろを振り返った。
「……あれ?」
すぐ真後ろにいたはずの人物は忽然と姿を消し、金髪の知らない外国人が怪訝な顔で私を見ていた。慌てて謝罪し、辺りをキョロキョロと見渡したが、優太らしき人はどこにもいない。
うっそ……まさか、逸れた……!?
迷子という二文字が一瞬脳裏をよぎり、急いで人の波に逆らうように引き返した。背が高くガタイの良い外国人に何度もぶつかり転びそうになったが、どうにかよろけながらも王宮の外へと飛び出す。慌てて優太に連絡しようと顔を上げた、その時。
「…………え?」
私、とうとう目がおかしくなったのかな……。
数回目を擦って、また開いてを繰り返したけれど、見える景色はやっぱり同じで。
眼前に広がっていたのは、密林に囲まれた半壊状態の遺跡群……ではなく、生き生きと芽吹く豊かな緑と清らかな小川、そして赤く光彩を放つ建造物だった。