9.昼下がりの……
午前中にアーニャの所に行くのが、日課になった。
本を持っていったりおやつを持っていったり、お話をするだけでも楽しい。
ベルタは一人でも時間がつぶせるし、暇なら暇なほど自由を感じるほうだが、アーニャはそうではないらしい。
いつもベルタが行くのを心待ちにしてくれているのか、行くたびに笑顔で迎えてくれるし、帰り際には寂しそうにしてくれる。
まるで普通のお友達のようだ。普通のお友達、がいないベルタにしてみれば、もしかしたら初めての……。
午後は自分の好きにするとして、午前中はアーニャと一緒に過ごす。待っていてくれる相手がいると感じるのは嬉しい。
例え相手が、誰であれ、だ。
「アーニャ様!」
「ベルタ、待っていたわ」
手土産のクッキーを渡すと、アーニャがお茶を用意してくれる。が、今日はそれを制して、
「先にお掃除いたしますね」
「え? 掃除なんかいいから、」
「お話ししながらだったらすぐですよ」
別に汚れているわけでもないけれど。
気持ちが良く晴れた朝には、窓を開けて拭いて、そうしたら気持ちの良い風が吹いてくる。
「気分転換です。わたくしの部屋の窓は、他の人に拭かれてしまって」
「あら。じゃ、お願いしようかしら」
「ええ。お姫様」
くすくす笑いながらお掃除。
働くベルタの邪魔にならないように逃げ回りながら、楽しそうにアーニャは笑う。
天真爛漫そのもののアーニャ。
身についている気品は、平民のものではなさそうだ。けれど、貴族の中で見た記憶もない、のだがどこかで見たような、……。
◇ ◇ ◇
「本日は、マティアス様は午後から外出とのことです」
ということで、今日の午前中はアーニャのところには行かずに、マティアスと話をして過ごした。他愛もない話を、取りとめもなくするのに付き合ってくれる旦那様。つまらなくないかしらと思うけれど、ただ一緒に。
午後から予定があるのに、その午前中をベルタに割いてくれるのが嬉しい。嬉しい半面、少しだけ申し訳ない。
楽しい話題も持たず、読んだ本のこととか咲いていた花のこととか、幼い頃の話とか。柔らかい表情で聞いてくれる旦那様との時間が、ベルタは好きだ。
この屋敷に来てから2週間ほど経った。使用人とも仲良くなったし、家の中で迷うこともなくなった。穏やかな日々を過ごしている、けれど。
何となくまだすべて気を許して貰えていない気がするのは、アーニャについて他の誰にも聞けていないからだろう。自然に誰かが話してくれるのを待っていたけれど、なかなかその機会は訪れない。使用人からも彼女に関しての話は聞かないし、マティアスからも当然のようにその話題は出ない。
そして、ベルタからこの話を持ち出すのも今更感があるのだ。
「どうしたものかしら」
独りごちながら、いつもの通い慣れた離れへ自然と足が向いていた。毎日会っているもの、まさか本当は存在しないとか、……実は庭園の幽霊であるとか。そんなことはないと思うんだけれど。
そう言えば、午後に行くのは初めてかもしれない、と思った。別に約束しているわけではないけれど、今までの訪問はいつも午前だった。
びっくりするかしら? こっそり入って驚かしてみようかしら。
いたずらっぽい気持ちは、まるで童心に帰ったようで。
何となくうきうきした気分で離れのドアに手をかけた。鍵が開いているのはいつも通り。
そっと開いて、足音を立てないようにゆっくりゆっくり階段をあがっていく。階段上の部屋のドアはいつも全開だが、今日は細く開いているだけだった。
もしかして、お昼寝中かしら。
寝ていたらこのまま黙って静かに帰ろう、と思って耳を澄ます。寝息が聞こえるかしら、静かなお部屋だから。
と。
(……男の人の声?)
部屋の中から、低い男の人の声がする。何の話をしているのかまでは聞き取れない。アーニャの声がそれに答えるように甘く響く。
お客様が来ているのか、それでは邪魔しないようにこっそり帰りましょう、と向きを変えようとした時。
「っぁ、……っ」
!!
小さいけれど聞き間違えようもない、アーニャの嬌声が漏れてきた。
びくっと身体が震える。足が床にくっついてしまったように動かない。その間にも、艶やかな声が鼓膜を揺らす。
ベルタには経験はない、が本能的に分かってしまった。身体中がざわざわするようで、音を立てないようにと気を付けながらも急いでその場を離れた。がくつく足を奮い立たせて。
顔が熱い。
まだ日の高いうちから、いや、誰も来ない部屋だからいいのかしら、あぁでもどうしましょう。
離れのドアを出ると、全速力で自室へと駆け戻って、ベッドに潜り込んだ。
「ベルタ様? お昼寝ですか? お加減でも、」
「リタ、ごめんなさい! ちょっとだけ、寝ます!」
どきどきがとまらない。
大人だもの、そういうこともあるでしょう。
ベルタだって結婚したらそういうこともあるかもしれない、でも恥ずかしさで居た堪れない。昼から、そんな、鍵もかけずに。
他人のその音を聞いてしまった罪悪感と背徳感に、震える身体を抱きしめて目をきつく瞑った。思い出しそうになる声を頭からふりはらうように、関係の無いことを次々と思い浮かべていく。
読んだ本のこと、飲んだお茶のこと、咲いた薔薇のこと、ストロベリーゴールドの髪、あぁ駄目だ。
夕食近くになって目が覚めた。眠ってしまっていたらしい。
顔の前にかかった髪を横に避けて、ぼーっとする頭で気付いた。
そういえば、お相手の男性は、……。
『本日は、マティアス様は午後から外出とのことです』
朝、リタから聞いたそんな言葉が不意に思い出された。つ、と頬に涙が伝ったのを感じた。
あぁ、困ってしまう。
わたくしは、頑張れるのでしょうか。
知らなかったことには、出来そうにない。