8.言えないこと、言いたいこと、言えたこと
ストロベリーゴールドの柔らかな波打つ豊かな髪に、宝石よりもきらめく瞳、優しい声にいたずらっぽい笑み。
「素敵な人だった……」
白いシンプルなドレスに身を包まれたアーニャは、女神か花嫁の様で。あの空間に二人だけでよく耐えられた、と思う。いや、二人だけだったから大丈夫だったのか。もし仮に社交界に彼女がいたとしたら、きっと近づけない。女神と壁紙じゃ次元が違うのだ。
あんな素敵な人なら、隠しておきたい気持ちもわかる。独り占めできたらどんなに素敵だろう、と思う。あの甘く潤んだ瞳に自分だけを映してくれるなんて、考えただけでも震えそうだ。
でも。
(わたくしにだけでも、教えてくださればいいのに)
あの人が本当にマティアスの想い人なのだとしたら、言えない気持ちはもちろんわかる。本人同士の気持ちはどうあれ、ベルタはマティアスの婚約者だから。話しても嫌な思いをさせるだろう、と思うかもしれない。アーニャを憎むかもしれない、と思うかも。
(でも、わたくしはアーニャ様にいじわるなどしませんのに)
羨ましいと思うのすらおこがましいほど、素晴らしい女性。その人に、こんな自分が……亡霊で壁紙の自分が何か悪いことなどできるわけもない。
「人の来ない離れで一人きり、なんて、それこそ亡霊にふさわしい生活な気もしますけれど」
アーニャとベルタ。立場が逆であったなら、マティアスも幸せだっただろうか。でも、それは無理なので……マティアスのために、家族の、父の期待を裏切るほどの勇気はまだ出ないので、婚約を取りやめるなんて無理な話。
せめて、自分にできる精いっぱいで頑張ろう、と思うのだ。
◇ ◇ ◇
結婚式まではまだしばらく期間がある。
マティアスの公務が一段落し、ベルタの生活がここに馴染むのを待ってから挙式だ、と父に聞いた。
そんなに待たなくても、結婚してしまえば何とかなるのでは、と思ったが、結婚時期を決めたのはマティアスだという。
「お仕事がお忙しいのかしら」
式が挙げられないくらいに、とベルタは書棚の本を眺めながら思う。優秀な方だから、忙しくてもしかたない。
ベルタがここに馴染むのは、待つ必要がないと思う。結婚してからでも別にいいし、何よりここは心地よくて戻る気もなくなるくらい。
姉、フィオーネもそんな場所を見つけたのか。
まったく音沙汰のない姉。元気なのかどうかだけでも知りたい。
面白そうな小説と綺麗な図案を二冊手に取ると、ベルタは自室へと戻ることにした。書庫に置いてあったメモ用紙に、持ち出す本のタイトルと自分の名前を書き、残しておいた。
部屋で一度読んでから、アーニャ様に持っていこう。喜んでくれるだろうか、本はお好きだろうか。
うきうきした気分で廊下を曲がると、ベルタの部屋の前にマティアスが立っているのに気付いた。
「マティアス様?」
呼ぶと、彼はほっとした顔で振り返った。そして、ベルタが抱きしめている本を見て、
「書庫に行っていたんだね」
「はい。お借りしました」
「何でも持っていっていい。すべてあなたのものだ」
ちょこんと膝を折って礼をすると、マティアスは目を細めて言った。
「少し、話をしても?」
「マティアス様にお時間があれば。中にどうぞ」
部屋の主がいなくてもどんどん入ってくる兄たちとは違う。紳士的な態度に、何だかくすぐったくて嬉しくなる。
「ここはみんな、とっても優しい人ばかりですわ」
ぽつりとそんな独り言を漏らすと、マティアスはベルタの髪をひとすじ掬ってさらりと落とした。
「そう思ってもらえると、嬉しいが」
「お世辞なんか、言えません。……あまり、話すのが得意ではないので」
華々しい社交界や貴族との付き合い、ベルタはそれらを避けてきた。花を育てたり景色を描いたり、静かな生活が好きなのだ。
「……つまらない女なのです」
「私もだよ」
マティアスは優しくそう言った。
「女では、ないけれど」
くすっとベルタが笑う。彼も微笑む。
「私たちは、似ているかもしれない」
「わたくしは、あ……マティアス様のように美しくはないですけれど」
一瞬、アーニャ様のように、と言いそうになったのを慌てて誤魔化した。彼はそれに気付かず、長い足を組んで座った。
ベルタを見上げる瞳は深く青い。
「ここでの暮らしに、不自由はない?」
マティアスの問に、頷いた。
「皆さん、ほんとに親切にしてくださいますし。食事は美味しいし、書庫には面白そうな本がたくさんで、お庭も美しくて、……」
「よかった」
ゆっくりと立ち上がると、マティアスはベルタの頭に手のひらを乗せて、さらりと撫でた。
「それだけ、心配だった」
「ふふっ……あ、そういえば!」
「ん?」
大事なことを忘れていた。
「先日、姉の、フィオーネの帽子を届けていただいて」
あぁ、とマティアスは思い出したように言った。
「ずいぶん遠くにあったようだね」
「……もう、マティアス様には黙っているのも違うかなと思うので言ってしまうと、……姉がいなくなってしまって」
「!」
驚いたように見開かれた目に、ベルタが映る。瞳の中のベルタは別の生き物のように小さく見える。藍色の瞳の中で、溺れるように不安げに身体を縮こまらせている。
「誘拐、ですか?」
「いえ、置き手紙があったのでそうではないと思う、んですけれど」
よくわからない、と伝えると、マティアスは少し考えるように眉根を寄せた。
マティアス様、お姉様のことを無責任で奔放な女だと思われるかしら。
ちらりとそんな心配が横切ったが、マティアスは静かに言った。
「もし見かけたと連絡があったら、すぐに伝えよう。他の者にはフィオーネ嬢がいなくなっていることは伝えないが、……そうだな、ベルタがこっそり会いたがっているから、見つけたら私に報告するようにと周知する」
「ありがとう、ございます……」
知られたくない、という気持ちを言わなくても汲んでもらえた。それがたまらなく嬉しい。
そして、この嬉しさと、優しさに対して報いたいと思う気持ちをどうやって伝えたらいいのかわからなくて、ベルタは少しだけ微笑んだ。嬉しい気持ちだけでも伝わりますように。
「心配いらない」
「……はい」
優しい旦那様。
と。気付いた。そうだ。結婚相手だと思うからいろいろ心が乱れるのか。旦那様だと思えば良いんだ!
マティアス様は旦那様。
旦那様に仕えて、旦那様の大事なものを大事にする。一番の側仕え。そう、それが一番しっくりくる。
決心してマティアスを見ると、不思議そうにベルタを見ていた。そして、
「何か、……私に言いたいことが?」
「あ、えーと、……旦那様」
「!?」
びっくりして動きが止まったマティアスに、ふふっと笑みが漏れた。微かに赤くなってしまった頬を見られないように、俯いて。