7.白い家の貴婦人
ピンクの薔薇、黄色の薔薇、と咲き誇る薔薇の植木に服をひっかけないように歩いていると、ひらりと視界の端に白いものが見えた。
誰かいるのかしら。
音を立てないように、と静かに後を追う。
白塗りの壁の陰に隠れるように、白いドレスの裾は見えなくなった。
見上げると、近づかないように言われた例の離れ。あたりを見回すが、人影はすでにない。
あのひとは、ここに住んでいるひと、なのかしら。
見ると、白樫のドアが少し開いていた。再度あたりを見渡す、やはり誰もいない。ドアの内側からも、特に物音はしない。
呼び鈴のようなものがないか、見てみた。どこにもない。ノッカーもない。
誰にも訪ねてきてほしくない、というような拒絶の意志を感じる。
(の、わりにドアは開いているんですよね)
ノブに手をかけて、どうしようか迷う。そっと閉めてこのまま戻ることは簡単だ、けどこんな機会はもうないような気がする。
マティアスが隠したかったものが、まさかこんなに早く見られるなんて、と期待と緊張と心苦しさでドキドキしてきた。
一応、と思い「お邪魔します」と声をかけてみた。
すると、
「はぁい?」
「!」
返事があるとは思わなかったので、ベルタは息をのんだ。
澄んだ、明るい、柔らかい声。もう一度聞きたくて、声がかき消されないように静かにドアを開けて一歩中へと入った。
耳を澄ましていると、部屋の奥へと続く階段の上から微かに足音がする。
小さく笑う声も。
「あ……」
「上がってらして?」
楽しそうに、声が降ってくる。
いいのかしら、どうかしら、怒られないかしら、という心とは裏腹に、手はドアをきちんと閉め、足は自然と階段へと向かってしまう。
「お邪魔、いたします」
どきどきする。
階段を上ると、正面の部屋のドアも開け放たれていた。
窓も開けられ、吹き込む風でカーテンがひらひらとはためいている。
窓際に座る女性のストロベリーゴールドの髪は陽光に煌めいて、でもその表情は逆光のせいで良く見えない。
「いらっしゃい。かわいらしいお客様ね」
ベルタに向けられた声は柔らかく落ち着いている。静かにお辞儀をすると、くすりと笑ったのが分かった。
「もっと近くにどうぞ? お茶はお好き?」
「あ、あの、……ベルタと申します」
「わたくしはアーニャ。よろしくね」
手慣れた様子でお茶を淹れながら、彼女は自己紹介をしてくれた。花の香りのするお茶は、彼女の髪に似たピンク色をしている。
勧められるままに一口お茶をいただき、ほっと息をついた。
どうしよう。考えなしに上がり込んでしまったけれど、このかたは……。
(マティアス様の、例の、……大事に隠しておきたいおかたかしら?)
ちら、と顔を覗き見る。
陶磁器のような滑らかな肌、緑の大きな瞳。それを縁取る長い金色のまつげは、頬に濃い影を落としている。ありきたりな言葉でいえば、「お人形のよう」な美貌。
「ベルタさんは……」
「はいっ」
ふいに名前を呼ばれ、思わず声が上ずってしまった。
アーニャはにっこり微笑んで、動悸が収まらないベルタの顔を見つめる。
「どうしてここへ?」
さらりと訊かれ、どこからどうやって説明したらいいのか、脳内で言い訳が高速回転する。ぐるぐる考えていると、ふふっとアーニャはまた笑った。
「なんて。追いかけてくるかしら、と思ってわざとドアを開けておいたのよ」
「え、」
「あなたは素直な良い子ね」
大人っぽく、落ち着いた話し方だが仕草は幼さを感じるほどに無邪気。愛らしい人だ、と思うと胸がキュッとした。どこかへ行ってしまった姉と似た雰囲気を持つ女性。
「でも、知らない人についていくと危ないわ」
わざとらしくそう言って、彼女はベルタのおでこをつん、とつついた。
「……アーニャ様こそ、知らない人を家に入れたら危ないです」
「あら。それもそうね」
顔を見合わせて笑う。
初めて会った人とは思えないくらい、気楽に接することができる。本当の家族のような心地よさに、ベルタは緊張が解けていくのを感じていた。
「マティアスは、今日も仕事なのかしら?」
親しげに名前を呼び捨てにするアーニャに微かに驚きながらも、ベルタはこくりと頷いた。
「ご公務とのことで、早朝から出かけられました。……えっと、」
「なぁに?」
一瞬ためらったが、
「マティアス様とは、……」
後が続かなかった。何て訊いたらよいのだろう。失礼にならないような訊き方が思いつかず、でも口から出てしまった言葉は戻せない。
はくはくと唇だけが動き、言葉を発せなくなったベルタに、アーニャは事も無げに言った。
「えぇ。仲良しよ?」
それはどういう、というところまで訊くのはさすがに憚られて、ベルタは「そうなんですね」とだけ返事をした。
それでいいです。具体的な話など、聞く権利もないしそんな立場でもないのですし。
マティアス様と仲良しの、お姉様のような優しい人、それで十分すぎるでしょう。
「……あの、」
意を決して、ベルタは椅子から立ち上がった。
キョトンとした顔で見つめてくるアーニャに、ベルタは深々と頭を下げた。
「何か、お困りのことなどありましたら、わたくしに言ってください」
「ベルタさん……でもあなた、」
「みんなには内緒にします、だからわたくしがここに来ることも内緒で……」
秘密のご令嬢のお役に立ちたい。それがマティアス様のお役に立つ、きっと。
ベルタの勢いに押されるように、アーニャはこくこくと首を振り、花のような笑顔を浮かべてくれた。
「内緒のお友達ね」
ベルタの手を取り、「よろしくね」と笑う彼女の手は、ひんやりと心地よかった。
温めるように握り返して、また遊びに来ることを約束した。