後日談.シンシアの愛する侯爵は、
ふたりいたはずの娘が、ひとりもいなくなってしまった。
シンシアは、窓辺に寄せた椅子に腰掛けて、星空を眺めていた。
「風邪を引くよ」
低く優しい声と共に、肩に柔らかいショールが掛けられる。
愛する夫の目を数秒見つめて、シンシアは小さく笑った。
「ありがとう、あなた」
「寂しいかい」
「えぇ、……そうね。でも、子供はいつか巣立つものだもの」
ベルタが生まれてからのことが、自然と思い出される。
やんちゃなリュカに手をかけすぎて、おとなしく聞き分けのいいベルタとの思い出があまりなかったかもしれない。もっと抱きしめてあげればよかった、こんなに早くお嫁に行ってしまうのだったら。
それから、ベルタのこと考えるといつも同時に浮かんできてしまう、苦い記憶。
「あなた、……ジャイルズ」
「何だい?」
「あなたの子達は、元気に暮らしているの?」
フィオーネが生まれた後。
ジャイルズは、友人が開いてくれた祝賀パーティで、喜びのあまりに酒を飲みすぎたことがあった。無事に生まれるまで、と願掛けのために禁酒していたこともあり、アルコール耐性が弱まっていたのもあるだろう。
友人宅で酔い潰れ、その日は帰宅できなかった。
それから1年経ち、フィオーネの1歳の誕生日にその女性は来た。
「あの日の子です、ジャイルズ様」
そう、蚊の鳴くような微かな声で言った女性は、友人宅に勤めていた元メイドだった。
シンシアは混乱した。どうして、子が生まれたばかりだというのに他の女性と関係を持ったのか。しかもメイド。酔っていたとはいえ、考えられない。それとも、もっと前から関係があった女性なのか。
説明を求めるように夫を見つめたが、ジャイルズはシンシアよりもさらに不思議そうな顔をしていた。消え入りそうな声で、「知らない」と呟いていた。
シンシアは、ジャイルズに言った。
知らないとはどういうこと?
あなた、他の女性に子まで生して、知らないは通らないのではない?
夫の不義よりも、不安げに震えている目の前の女性を軽視した発言に怒りを露わにしたシンシアに、その女性は「違うんです」と泣いた。「ごめんなさい」と崩れ落ちた。
あの日、酔い潰れたジャイルズを介抱したのはこの女性、メイドのイネッサだった。
以前から館に出入りしていたジャイルズに秘めた恋心を抱いていたイネッサは、最後のチャンスとばかりにジャイルズに迫った。
肌を露わにして寄り添ったイネッサに、ジャイルズは酔いのせいで呂律も回らないまま、彼女に自分のジャケットを掛けて、
「いけないよ」
と笑ったらしい。自分のしたことが恥ずかしくなり、乱れた衣服のまま逃げだしたイネッサは、祝賀パーティに来ていた他の貴族男性に呼び止められてそのまま……ということだった。
その貴族もジャイルズの友人だったが、すでに亡くなっている。もともと身体が弱く、妻を娶ることは諦めていると聞いていた。が、実際は友人宅のメイドをずっと愛していたがために、他の女性と結婚する気が起きなかったということだったらしい。
たった一度だけ想いを遂げた、その結晶の子供。
ジャイルズは、その子供は自分の子であると言った。
自分の子にする、ではなく、自分の子である、と。
いつもはシンシアの気持ちを最優先にしているジャイルズが、妻の意見も聞かずに即決したのだ。
友人の忘れ形見であり、自分を慕ってくれていたという女性の子である。見捨てることなどできなかった。イネッサは、「彼に何かあったらジャイルズ様に頼るように、と」と申し訳なさそうに声を震わせていた。そこには、ジャイルズに対する恋心などもう窺えなかった。ただ、幼い子を抱えて不安で潰されそうな女性がそこにいた。
彼女の話には驚き呆れたけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
情の深い夫。夫を愛した他家のメイド、そのメイドと友人の間の息子。
「わたくしは、可愛がったりはしませんよ」
シンシアはそう言って、わざとらしくツンと横を向いて、「お好きにどうぞ」を決め込んだ。
簡単に許すとも言えないし、夫が裏切ったわけでもないし、と。
ジャイルズは、イネッサの子供は自分の子であると申請した。同時に、シンシアに頼み込み、イネッサを側室に据えた。対外的にも、子の親がホイットモー侯爵であることを示すことを選んだのだ。
その後、シンシアが4人目を身ごもったのちにイネッサも懐妊した。
側室となってからの子は、自動的にジャイルズの子と見做される。子供達にも周囲にも、もちろんジャイルズの子であると伝えている。出生の秘密は、生まれた本人達にも明かさないと決めている。
本当のことを知っているのは、イネッサとジャイルズとシンシア。それと、イネッサの幼馴染だけ。
「――今度、会いに行こうか」
「えぇ、そうね。わたくしも一緒で、ご迷惑でなければ」
「シンシアを連れて行かなければ、イネッサに怒られてしまう」
ちょん、と触れるだけのキスをして、身体を寄せた。
「損な性分ね、ジャイルズ」
「シンシアが分かってくれていれば、それでいい」
「ストロベリーブロンドの料理人に、鳥のシチューを作っていただきたいわ」
「彼の料理は絶品だからね。お願いするとしよう」
子供はいつか巣立つもの。
愛する夫と共に、見送ろう。
「あ。シンシア、寂しかったらもうひとり、」
きゅ、と鼻をつままれて話を遮られ、ジャイルズは子供のように笑った。
シンシアと、夫ジャイルズ=フォン=ホイットモー侯爵のお話でした。