翌日譚.オクレール来襲
大きな藍色のアロムが咲く、南国に思いを馳せる。そこにいるだろう姉を想う。
連絡が待ち遠しい。ふくよかな香りを感じながら、ベルタは微笑んだ。
ベルタの私室の大きなソファに座り、昨日の結婚式のことを思い返しながらのお茶の時間。横にはマティアス。視線を交わして、笑いあう。
控えめにノックの音がした。
「どうぞ」
「あの、マティアス様、すみません」
扉の影から出てきたリタが、おずおずとマティアスに頭を下げた。
「どうした」
「大変お疲れのところと思うのですが」
「どうしたの?」
いつになく歯切れの悪い様子で、リタは視線をさまよわせる。
すがるような目でベルタを見つめた後、深く頭を下げた。
「申し訳ございません!」
「リタ?」
「応接室に、オクレール公爵が」
「マティアス!」
応接室にいるのではなかったのか、と思うより早く、大きな声と同時に部屋に駆け込んできた男を見て、マティアスは思わず立ち上がった。
「オクレール公! どうしてここに、というか妻の私室に入ってこないでいただきたい!」
「あ、あぁすまない……でもどうしたらいいのか分からないのだ」
「速やかに応接室へどうぞ」
入ってきた扉を指さされ、オクレールは肩を落としてとぼとぼと部屋を出て行った。
ベルタはその背中を目を丸くして見つめ、数度瞬き。
「オクレール様、何だか痩せられました?」
「……仕方がない。応接室に行こう」
二人の時間を邪魔されたマティアスは、きつく眉を寄せて短くため息をついた。
応接室に入ると、がっくりと肩を落とした公爵が、頭を抱えて座り込んでいた。
「あの、オクレール様?」
「ポーリーンが、……妻が出て行った」
「前から出て行かれてましたよ」
「そうではない、これを……」
す、とテーブルの上に載せられた紙を、マティアスは手に取った。何度か読んだのち、可哀想なものを見る目で公爵を見つめた。
「離縁されるんですね」
「え!?」
「離縁などしない!!」
パン、とテーブルを叩いてオクレールは立ち上がる。いらいらと周りを見渡し、それからまた腰掛けた。
「――離縁など、するわけがない」
「でもこれ、」
「離縁状だ」
ベルタは、何を言っているのか分からない、と丸い目でオクレールを見た。
「離縁状をもらったのに、離縁されないのです?」
「する理由がない」
「しない理由の方がないですよ」
「マティアスは私の味方をしないのか!」
「私は妻の味方です」
見つめあってわざとらしく微笑みあう夫婦に、オクレールは憔悴しきった顔で頭を下げた。
「頼む、助けてくれ」
「わたくしたちに何かが出来ますか?」
ベルタは、静かに言う。
「ポーリーン様は思いやりがあって頭がよく、社交的で面倒見の良い、素晴らしい女性です。しかも、オクレール様を愛してらっしゃいました」
「そうだ、なのに、」
「なのに、ではありません。だから、離縁されるのです。オクレール様にはどうして分からないのです」
ベルタは震えそうになる声を抑えて、努めて抑揚をなくした声音でつづけた。
勇気づけるように、マティアスがその手をそっと握る。
「……アーニャはどうしたのですか」
「ポーリーンがここに乗り込んできたあと、あれは家へ帰した」
「『乗り込んできた』『あれ』『帰した』、そういうところです。そういう物言いに、ポーリーン様のこともアーニャのことも大事にしていない様子が窺えるのです」
腹違いとはいえ、妹。アーニャに対する扱い。
それからたくさんお世話になった優しいポーリーンのことを想うとベルタは切なくて胸が苦しい。
「奥様をないがしろにするくらい、アーニャのことを愛していたのではないのですか」
「それは違う。アーニャの存在にポーリーンが気付いたら、傷つくのではないかと思って」
「愛人を隠して囲われていたら、そっちの方が傷つきます!」
「ベルタ」
思わず声が大きくなったベルタを気遣うように、マティアスは優しく宥めた。
そして、妻の言葉を引き受けるように続けた。
「なぜ、ポーリーン様が傷つくと知っていて、アーニャを愛したのですか」
「愛……」
オクレールは考えるように腕を組んだ。
そして、言葉を探しながら話し始めた。
「ポーリーンは妻だ。昔から決まっていた。愛していたし、今でも愛している。妻であり、母の様でも姉の様でも妹の様でもあった。……例えば、犬を飼っていたとして」
急に話題が変わった。きょとんとしているベルタには気付かず、オクレールは足を組み替える。
「ずっと大事にしている家族のような犬がいるとして、散歩している途中に可愛く懐いてきた猫がいたとする。でも、犬と猫は一緒に飼えない。であれば、猫は外で飼えば犬に気付かれることもなく、」
「そうすれば、責任を取ることもなく好きな時に遊べて好都合、ということですか」
ベルタの頬が紅潮していく。
「犬は鼻がいいんです、他の動物の臭いにだってすぐに気付きます!」
「いやベルタ、そこじゃない……。犬猫に例えるところがまず」
「アーニャが汚い野良猫なら、オクレール様は馬鹿なおサルさんです!」
「汚い野良猫なんて言っていないぞ!?」
自分がサル扱いされていることはどちらでもいいらしい。
オクレールは失言を謝りながら、誤魔化すように言った。
「何が悪かったのかは分かっている! それは分かっているから、ポーリーンに帰ってきてほしいのだ!」
「アーニャは納得して帰ったのですか?」
「あぁ、もちろん」
ベルタの強い視線に、なぜか自信満々な顔で頷いて、
「金を掴ませたら泣いて喜んでいたぞ」
「……っ!!」
「ベルタ、落ち着いて」
可哀想なアーニャ。恨み言を言う元気もなかったのだろう、と思う。
アーニャの生い立ちを考えれば、またしても貴族に踏みにじられたと感じても不思議ではない。
じわじわと涙が浮かんできて、オクレールの顔が滲む。顔を見たくない、だからちょうどいい、とベルタは涙を流れるままにしていた。
「オクレール公」
マティアスがゆっくりと、幼い子に言い含めるような口調で話しかけた。
「なんだ」
「ポーリーン様を愛している、というのであれば、しばらく放っておいてあげてください」
「なぜだ。そうしたらもう帰ってこないのだろう? 迎えに行かないといけない」
「しつこい男は嫌われる、と言ってらしたのは公爵ですよ」
むぅ、と黙ったオクレールに、マティアスは微笑んで言った。
「オクレール公も散々好きなことをなさってたのですから、ポーリーン様のこともしばらく自由にさせてあげてください」
「そうしたら戻ってくると思うか?」
「その間、他によそ見をしなければあるいは」
うなだれるオクレールに、ベルタはわざと聞こえるような溜息をついた。
そして。
「心の底から反省なさいませ」
「……マティアスの嫁は強いな。お前も気を付けないと私のように逃げられるぞ」
「逃げられるようなことをしないので」
お前も言うようになったな、とオクレールは苦笑いして帰っていった。
「マティアス様」
「ん?」
「……ポーリーン様、大丈夫でしょうか」
「何かあったらすぐに連絡が来るよ」
「え?」
にっと笑って、マティアスはベルタの手を握り締めた。
「だから安心していて」
オクレールも、マティアスのように妻だけを見ている時期はあったのだろうか、とベルタは思う。
マティアスも、父やオクレールのように……とは考えたくないが、その時はその時でうまいことやれる気もした。気がするだけだけれど。
窓の外を馬で駆けていくオクレールを眺めながら、遠くに行った年上の友人を思う。
もう、この先ずっと幸せでありますように。
一人で泣くようなことが、ありませんように。
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あとひとつ。