36.準備も大詰め
「おかえり、ベルタ」
馬車が門の前に着いた瞬間、待ち構えていたかのようにマティアスが駆け寄ってきた。
侍従よりも早く迎えてくれた夫に、ベルタは思わず笑みが漏れる。
「ただいま帰りました」
「ポーリーン様も、長旅に同行いただきありがとうございます」
「いえ、楽しいことばかりでしたわ」
そう言った表情は微かに固かった。
それに気付いたのか、マティアスは少し声を潜めてポーリーンに言った。
「オクレール卿が行きましたか」
「……そのようですわね、馬車がすれ違っただけなので会ってはいないけれど」
「そうですか……探し回っているという話を聞いて、もしかしたら、と」
ふふ、と感情の乏しい笑いを漏らして、ポーリーンは首を振った。
「何だか……これは、独り言だから聞かなかったことにしてほしいのだけど。もはや、何かお話をしたかったのか。話をすべきかどうかすら、よく分からなくなってきたわ。わたくしは何から逃げているのかしら」
「ポーリーン様は逃げてなどいません」
ベルタは『独り言』を遮るように強い口調でそう言った。
「ポーリーン様は、わたくしの婚礼準備のために尽力してくださっているだけです。そのためだけに公爵家を出られて、ここにいてくださるのです」
同意を求めるようにマティアスを見上げると、彼もこくりと頷いた。
「私がお願いしていることですから」
「クロードが来て、『ポーリーンはいないか』と言っても、そう言ってくださるの?」
ポーリーンの目が、公爵相手にごまかすようなことを告げられるのか、と問う様にすがめられる。
が、マティアスは何ともないような顔で頷いた。
「事実ですから。というより、」
「まさか、もうすでにここに探しに?」
愛人を囲っていたこの場所で今度は妻を匿っているなど、普通は思わない。
が、他に探すところがなくなってしまえば、ここにも来るだろう。むしろ、マティアスの妻の実家にまで行くのであれば、ここに来ない理由がない。
ポーリーンの問いに、マティアスは「来られましたよ」とこれもまたこともなげに言う。
「では、ポーリーン様がわたくしのお手伝いをするために泊まられていることも、お伝えしました?」
「いや、それは言っていない。……聞かれなかったからね」
さすがに、ここで妻を隠しているのかと聞けるほど恥知らずでもなかったか。
ここに来て、もしポーリーンが来ていればマティアスが何か言ってくれると思ったのだろう。オクレールは、マティアスが自分の好まない動きをするとは思っていないに違いない。
ぷっとポーリーンが吹き出した。
「ポーリーン様?」
「いえ、ごめんなさいね。何だかおかしくて」
目が笑っていない。
「わたくしを探す理由などないでしょうにね。可愛らしい恋人がおられるのだから」
その言葉に対しては、マティアスは何も反応しなかった。
ただ、視線を白薔薇の中庭へと注ぎ、小さく息をついた。
「オクレール様のお考えはわたくしには全くわからないですけれど」
ベルタは呟く。
「ポーリーン様よりも公爵夫人にふさわしい人などおられません」
「私もそう思いますけどね」
「あら、ありがとう」
おどけるように礼を言い、ポーリーンは馬車のドアを大きく開けた。
「ほらほら、こんなところで立ち話をしている場合? こんなに荷物があるのですよ、早く中に運び込んで! あぁ、ベルタは運ばなくていいわ、そこの大きな旦那さんに働いてもらいましょう。花嫁が結婚式前に怪我でもしたら大変よ」
くすくす笑うベルタに、マティアスは片眉を上げて「おまかせください」と笑った。
ポーリーン率いる結婚式準備部隊の動きは目覚ましく、ベルタがおろおろしている間に猛スピードで片付いていく。
大量に用意された結婚式の案内も瞬く間にはけていき、ポーリーンの表情は生き生きと輝いていた。
「ベルタ! 大盤振る舞いするわよ! しばらくは質素な暮らしになることを覚悟しておくことね」
「え!? あ、はい!」
「たくさんの方が、見えるわよ」
白薔薇の庭が薔薇で埋め尽くされるまで、あと3日。
結婚式まで、3日だ。
◇ ◇ ◇
結婚式の案内が盛大に撒かれ、いろいろなところから祝意が届いた。
ベルタはその一つ一つを手に取り、じっと見つめてから抱きしめる。
「……お疲れになりました?」
「いいえ、……いいえ、大丈夫」
多額のお祝いは丁重にお返しし、当日遊びに来てくれるように返信を書く、ということを続けていた。お祝いを受け取ってしまえば、それを包めない人が足を運びにくくなるかもしれない、というポーリーンの考えに賛成してのことだった。
「結婚式は一大興行だから儲けてなんぼ、という考え方もありますけれど」
そう言ってポーリーンは笑った。
「生活に困ってはいないでしょう?」
ベルタのこれまでのことを振り返れば、本当に目立たない人生だった。敢えてそうしてきたのももちろんあるけれど、華やかな家系、華やかな家族に囲まれて、どうしても自分を出せないままで来た。
たくさんの方が来る。
みんなが、自分を、自分たちの結婚式を見に来てくれる。
考えると緊張と興奮で身体が震えるようだった。マティアスが、ベルタの目の前に小さな飴を置き、穏やかに笑う。
「これ、花嫁さんに」
「?」
コロンとした飾り気のない白い飴。勧められるままに口に入れると、素朴なミルクの味が優しかった。
「おいしいです」
「今日、街に出たときに小さな子供にもらった。『花嫁さんにあげてください』って」
「え、……」
「街中の人が、私たちの結婚式を知っていたよ。いたるところに式の案内が貼ってあった」
まるで、いや、お祭りそのものだ。とマティアスは微笑んだ。
「領地の方も、みんな祝ってくださるんですね」
「もちろん。近隣の街からも来るって言っていたしね、もうこの辺りの宿は満室だそうだよ」
粗相がないようにしないと、とゴクリと喉を鳴らして拳を握り締めると、その上からマティアスの大きな手が被さってきた。
「幸せな笑顔を見せてくれるのが、一番」
「――はい」
髪に降ってくる唇をおとなしく受けて、ベルタは窓の外を見た。
あいにくの雨。二日後の式当日にはやむだろうか。
雨に濡れた薔薇も美しいでしょうね、と白く煙る中庭を眺めていた。




