23.告白
囁くような小さな声で、でもはっきりと「愛する人」とマティアスは言った。
不思議な感覚だった。驚いているのに、その言葉はすとんと心に落ちる。理由もなく、ただ「そうなんだ」と思った。
彼のことを、自分も愛していいんだ、と。そのことに一番安堵した。
マティアスの背中に腕を回して、身体を寄せると、こうしているのがとても自然であるような感覚に包まれる。
「……わたくしも、隠していました」
マティアスの胸に顔を押し付けて放すと、声がこもる。彼の心音に合わせるように、呼吸が速まる。
「ダメと言われていたのに離れに行きました。聞きたいこともたくさんあったのに、黙っていました。それに、」
話したいことも話さなければいけないことも、とめどなくあふれてくる。
謝らなければいけないと思うのに、胸の中に次々に浮かぶのは他のこと。
姉ではなく自分を選んでくれた彼への感謝と喜び、優しい声と温かい配慮。
徽章にかかった髪を解いてくれようとした不器用な指。
寝込むベルタに届けられた、オレンジの薔薇。
先を行く広い背中、何かを言いたげに見つめる深い色の瞳。
とんとんと宥めるように背中を叩かれ、それに押し出されるように気持ちが漏れた。
「わたくしだって、マティアス様を愛しています」
他の誰かのものでなかったマティアスの心を感じる。胸が苦しいくらいにいっぱいで、それ以上の言葉は出てこなかった。恥ずかしさと、少しの恐れでマティアスの顔を窺うことすら出来ず、ぎゅっと目を瞑ったまま、彼の胸に縋りつく。
そっと優しく身体が離され、ベルタの頬は大きな手で包まれた。
頬に触れた少し硬い掌に誘われるように目を開くと、マティアスの、深い青の瞳に映る自分と目が合った。背の高いマティアスは、腰をかがめてベルタを見下ろしゆっくりと言った。
「私と、結婚してください」
低く囁くような声は、まっすぐに届いた。
優しい瞳に映された自分の顔が頷くのが見える。
「はい、喜んで」
という言葉が終わるよりも一瞬早く、ベルタの身体はマティアスの腕の中へと引き戻された。
振り回されるように抱き寄せられ、浮いたかと思ったらそのまま高く掲げられて、マティアスが自分より下に見えた。
「マ、マティアス様!?」
「ベルタ! 私のベルタ!」
お気に入りのぬいぐるみを見つけた少年のような弾んだ声でベルタを呼び、そのままぐるぐると回りだす。
いつも冷静に見えたマティアスの意外な、子供のようなはしゃぎ方。隠し事がなくなったからか、すっきりしたような、ほっとしたような明るい表情につられて、ベルタも思わず声をあげて笑った。
「あは、あはは、マティアス様、ちょっと、ふふふ」
「私のだ、もうどこへもやらない」
ぐるりともう一度大きく回し、ふわりと地面へ。
目が回りそうなベルタの手の甲へ唇を寄せて、照れたように笑った。
「早く、ここを片付けてもらおう。そして、急いで舞台を整えてもらおう」
「マティアス様って、……」
「明日にも結婚式を挙げたい」
こんな人だとは思わなかった、いい意味で。
今まで受けていた印象とは180度違う。なんだかおかしくて笑いが止まらない。
ふと、視線を感じてマティアスを見上げると、彼は少し驚いたような目でベルタを見ていた。
「? どうしました?」
「いや……」
言葉を探すように少し間を空け、マティアスは嬉しそうに笑顔になった。
「私の妻は、やはり笑うと薔薇のようだ」
「薔薇柄の、壁紙ではないですか?」
照れ隠しのようにそう言うと、彼はまた笑う。
「それはいい。枯れず萎れず、いつも私の部屋を飾ってくれる。何より素敵だ」
そんな風に言ってもらえるなんて、と。
悪口でしかなかったベルタへの評判が、すべてひっくり返ったようで驚いた。
何より驚いたことは、マティアスが本気でそう思っているように見えること。
「この銀の髪も、抜けるように白い肌も、華奢な身体もすべて私のものだね?」
愛おしそうに見つめられ、慣れない視線に戸惑う。髪を梳く指先が肌に触れる度に心地よさに目を細めた。
「亡霊のようなわたくしでよろしければ」
「亡霊? あぁ、命が尽きた後もずっと、という理解で良いかな?」
くすくす笑い合いながら、幸せに心が満たされていくのを感じた。
それからしばらく、二人は取り壊しが進む離れを並んで眺めていた。
マティアスの祖母が愛した小さな家。夫を早くに亡くし、息子家族の邪魔にならないようにとひっそりと住んでいた、彼女の優しさが感じられる場所。
どことなく寂しそうな顔をしているマティアスの手を握ると、ベルタも微かに切ないような気持ちになるのだった。