21.夫婦の話をしよう
騒がせてしまって、ごめんなさいね。
そう言って、ポーリーンはギルフォード邸を後にした。自宅で主人の帰りを静かに待つのだという。
「あの人も、怒り狂った醜い妻のところになど帰りたくないでしょうね」
と、八つ当たりしてしまったことを謝罪しながら帰っていく背中は、とてもはかなく見えた。
「……ポーリーン様に、お伝えしなくてよかったのですか?」
ぽつりとベルタが言うと、マティアスは神妙な顔で眉根を寄せた。
「オクレール卿は、今はここにはいない」
「でも、数日前はいらっしゃっていましたよね」
数日前のことは関係ないかもしれない。けれど、あるかもしれない。何か有用な情報かもしれない、それはポーリーンにしか分からないのだから、隠すより話した方がいいに決まってるのに。
マティアスは嘘はついていないのだろう。けれど、本当のことをすべて話してはくれない、絶対に。
それが無性に悔しくなった。ポーリーンの寂しい背中を見たせいだけではない。
「貴族の男性は、」
「ん?」
「妻の他に女性と関係を持つのが当たり前なのですか」
ポーリーンの去っていった方をじっと見つめながら、問う。
彼女ははっきりとは言わなかったが、オクレール卿に他の女性がいて、その女性と一緒に逃げているのだと思っているのだと感じた。
ベルタの父もそうだった。母のことを大事にしている傍ら、別の女性との間にも子供がいる。そして、マティアスも。
アーニャの顔を思い浮かべて、きつく唇を噛んだ。
「当たり前かは分からないが」
そうでしょうね。で、あなたは?
「そういう貴族の男性がいることは確かだ。また、女性にもそういう方はいる」
まぁ、そうなんでしょう。ベルタの知らないところで、こんなことはありふれているのかもしれない。けれど。
「マティアス様も、そういう方、ですか?」
口にすると、あっけないほどに簡単な言葉。
目を丸くしてベルタを見下ろす視線を感じたけれど、ベルタはそのまま続けた。
「うちの父も、そういう方でした、ご存知ですよね? だから、偏見などは無いのです。貴族の婚姻というものは、家のためのもの。愛し合ってするものではなく、穏やかな家庭を」
こくり、と喉が鳴った。
「……表面上、穏やかな家庭を築くためのものだと理解しておりますので」
マティアスの手のひらが、ベルタの肩を抱いた。
誘われるように見上げると、今まで見たことのないような複雑な表情で、彼は微かに笑んでいた。
「私は、弱い」
細く長い息をついて、マティアスの手に力が籠った。
「伯爵家の長男、とは言ってもあるものを継ぐだけ。自分で作り上げたものなど何もない。作ろうとしたことも、ない」
自分もそうだ、とベルタは思う。やはり、似たところがある。きゅっと唇を噛み、続きを待った。
「だから、声を掛けられると弱いんだ」
「っ、」
「社交界や夜会、いろいろな集まりで、ギルフォードの名前があれば誰かしらが声をかけてくる」
声をかけられるのがお好き、なのか。
アーニャも、そうして声をかけて仲良くなり、愛され、匿われていたのか。
(わたくしは、どうだった?)
(来ていただけることに甘えて、自分から話しかけたりしたかしら?)
(妻の座に甘えすぎてはいなかった?)
マティアスの心は、もう誰かにさらわれてしまったのか。
つ、と涙が頬を伝った。
マティアスはそれに気付かずに続ける。
「オクレール公爵に声をかけられたのは、あの方が爵位を継承したのを祝う席だった」
ベルタはその式典には行かなかった。
「爵位の高い方なのに気さくで、明るく豪快な方だ」
伯爵と公爵ではなかなか親しくなることはない。プライベートな付き合いをするのは、相当気が合うか、それか利益があるか、だ。
マティアスは、考え込むように言葉を切り、ベルタの手を取った。
「おいで」
マティアスは、温かく大きな手でベルタの手を包んだまま歩く。背の高い彼は、ベルタの歩調に合わせてゆっくりと進むが、手を離そうとはしない。手を繋ぐ、というよりは、手を引いているという感じ。
(放してくれても、ついていきますけれど)
と思うが、ベルタもそのまま歩く。手を振りほどくわけでもなく、そのままで。