20.貴婦人は涙に濡れる
ものすごい剣幕で叫ぶその女性が口にした名前には覚えがある。最近聞いた、公爵家の跡取りだ。リュカが教えてくれた名前が、そんな感じだった気がする。
見たことがある気がするのは、社交界かどこかでだったか。見事な金髪は、フィオーネに似ている。
「クロード公爵は、本日はこちらにはお見えになっておりませ……」
「では、どこへやったのです」
射すくめるような冷たい声と視線。マティアスは一瞬たじろいだように表情をこわばらせて答えた。
「当方では分かりかねます」
「なぜです!」
バン、と壁を叩く音が響く。手が痛くないのかしら、あんなに華奢な方なのに、とベルタは身をすくませながら思った。
すると、その気配を感じたのか、女性は肩を怒らせたまま振り返った。
ベルタと目が合うと、眉が吊り上がる。
「貴女……どなた?」
凍り付きそうなほどに冷ややかな声音を向けられ、ベルタは慌てて一礼した。
「彼女は、私の妻です」
マティアスの声が聞こえて顔を上げると、こちらを見ている優しい目と目が合った。
妻、の響きに勇気をもらう。
「いらっしゃいませ」
「妻? マティアス卿、ご結婚されているだなんて聞いておりませんけど?」
「正式な発表はまだですが、婚約は済ませており、一緒にこの屋敷に住んでおります」
「本当でしょうね?」
値踏みするような目で見られ、ベルタは戸惑いながらも再度頭を下げた。
「ホイットモーの次女、ベルタと申します」
「あら! どうりであまり見ない顔だと思ったら、なかなか表に出てこない方のお嬢さんだったのね」
急に彼女の表情が緩む。緊張が解けたように、雰囲気が柔らかくなる。
「そう……マティアス卿の……それが本当ならまぁ、よかったのだけど……」
歯切れ悪くそう言って、壁によりかかった女性は、ばつが悪そうな笑みをベルタに向けた。
「ご挨拶が遅くなって申し訳なかったわ。わたくし、クロード……クロード=フォン=オクレールの妻、ポーリーンと申します。……みっともないところをお見せして、ごめんなさいね」
そんな、と言いかけたベルタに弱弱しく微笑み、ポーリーンは独り言のように言った。
「クロードが、帰ってこないの」
数日前、この屋敷に来ていたクロードのことを思い出す。マティアスの顔を窺ったが、その来訪について話す気はないようで、ベルタも余計なことは言わないようにと口をつぐんでいた。
ポーリーンは、美しい顔を歪めてぽつぽつと話す。
「もう、取り乱したところをお見せしてしまったから、隠すこともないわね……。クロードはね、わたくしのことが嫌いなのよ」
唇が悲しげに震えている。聞いているだけで辛くなるような声音で、彼女は続けた。
「わたくしが……わたくしのことが邪魔なのよ。ただ、わたくしの実家に資産があるからと結婚しただけだもの。あの人はわたくしのことなど愛していないのだわ」
「ポーリーン様」
「でも、だからといって、いなくなるなんてひどいじゃないの……っ、」
ベルタがハンカチを差し出すと、その時初めて自分の頬に涙が伝っていることに気付いたようで、彼女は照れたように笑った。
「ありがとう」
「わたくしも、……ポーリーン様のお気持ち、分かる気がします」
びっくりしたようにベルタを見るマティアスには気付かないふりをして、ベルタはポーリーンの背を撫でた。
「ベルタさん」
「はい」
「貴女は、そんな風に簡単に、わたくしの気持ちなど分かってはいけないわ」
自嘲的に笑い、彼女はマティアスを見上げた。
「政略結婚がすべて、心のないものであるとは限らないもの」
「でもそれは、――それは、ポーリーン様も一緒です。ポーリーン様も、……」
政略結婚だったとしても、公爵様を愛しているのでしょう、と。そう思わず訊きそうになったが、ポーリーンの瞳があまりに悲しみに濡れているので、それ以上は口に出来なかった。
ベルタの様子に、ポーリーンは笑った。
雨に濡れた薔薇のような、きれいな笑顔だった。