2.兄と弟の知っていること
「マティアスと婚約したんだって?」
ベルタのすぐ上の兄、次男のヴァルターと弟リュカが、父と入れ違いに部屋に訪れた。
ヴァルターは、勧められてもいないのにベルタのおやつをつまみながら、何かのついでのような調子でそう言った。
「もうご存知なのですね」
「朝、父さんが姉さんとベルタを探しながら、『ギルフォード伯の長男と縁談だぞ』って言ってたから」
リュカもクッキーを口に放り込みながらそう言って、侍女に紅茶を要求した。
「それでは屋敷中に知れ渡ってますね……」
「ねえ、ベルタ」
リュカは姉であるベルタに敬語は使わない。身長を抜かした瞬間から姉と呼ばなくなった生意気な弟は、緑の大きな眼でじっとベルタを見つめて唇を尖らせた。
「いいの?」
「何がですか?」
「結婚」
寂しく思ってくれるのだろうか。16歳になっても、身長を抜かしても、かわいい弟だ。まだ幼さの残る丸い瞳がキラキラしている。
ふふ、と笑みを漏らして、ベルタは頷いた。
「せっかくのご縁ですから……マティアス様がわたくしでも良いというのであれば、ですけれど」
「あいつは、」
「リュカ」
ヴァルターが、鋭くリュカの言葉を遮った。
「横から口を挟むことじゃない。伯爵令息に、あいつ呼ばわりはないだろう」
「でも兄さん、」
「――明日、マティアスが来るそうだ」
ベルタを見つめ、ヴァルターはゆっくりとそう言った。
「正式に、お前に結婚を申し込みに、とのことだけど……」
律儀な方なのだろうか。それとも、よく知らないわたくしのことを確かめに、だろうか。
政略結婚であった場合、結婚の当事者が挨拶に直接出向くことはまずない。結婚の申込みの様式に則った、正式な文書によって成り立つのが貴族の伝統だ。
「後ろめたいんだろ」
リュカが、舌打ちでもしそうな口調でそう言った。
「リュカ」
「後ろめたい……何がです?」
「だってあいつ、」
「リュカ!」
次兄の制止も聞かず、リュカはベルタの目をじっと見つめながらはっきりと告げた。
「屋敷に女を住まわせてるんだろ」
バン、とヴァルターが激しく机を叩くと、しんと室内は静まり返った。
温厚な次兄の剣幕と、いつもは明るい弟の剣呑な目つきにベルタは、それが真実であるのだと察した。
即答してもよいのか、と訊いた父の言葉が思い出され、それから美しき姉ではなく自分が指名されたことに対する疑問が晴れたような気がして、ベルタは大きく息をついた。
「……ベル?」
「なるほど、です」
「ベルタ?」
「マティアス様には、他に愛する女性がいらっしゃるのですね」
リュカですら知っている情報、ということは社交界では周知の事実なのだろう。社交界に興味を持たず、ひっそりと生きてきた自分の耳には入ってこなかったことではあるけれど。
マティアス伯には、表に出すことの出来ない、愛する人がいる。
であれば、地味で目立たず、いるのかいないのかわからない亡霊ベルタに求婚する理由もわかる。素晴らしい女性を娶れば、愛する女性を悲しませることになろう。奥様になる方にも、失礼極まりないだろう。
屋敷に住まわせているという、そのかたと結婚しないということは、何か難しい理由があるのだろう、とベルタは思う。
わたくしは隠れ蓑としては最高の素材なのだわ、とすべて納得出来た。隠れ蓑として使うことに罪悪感を抱くこともない、だってもとより亡霊のような女だもの。
「ねぇ、知らなかったんでしょ、そのこと。――ほんとにいいの? 断るなら今の内だと思うけど」
「即答でお受けいたしましたので」
「いやだから、やっぱり無理なら今日の内に言った方が」
「気持ちは変わりません」
なんとなく晴れ晴れした気持ちで、ベルタはにっこりと弟に笑いかけた。
「心配は無用です、リュカ」
「ベルタ、俺から断ってもいいんだぞ」
「お兄様、大丈夫です」
隠れ蓑、上等です。
ほぼ初対面の相手を愛せるだろうか、愛されるだろうか。
駆け抜けたそんな心配も、すべて無用なのだ。愛される必要も愛する必要もない、肩書だけの妻とは何て気が楽なのだろう。……ほんの少し、胸が痛くなったような気もするけれど。
「立派にお飾りの妻を演じて見せますね!」
急に元気になったベルタに、兄と弟は目を見合わせる。
「大丈夫です、そこそこの働きは出来ますもの、やろうと思えば」
「いや、姉さん、心配なのは働きぶりじゃなくてさ」
うっかり「姉さん」と呼んでしまうほどの動揺。
「夫の愛人が一緒に住むんだよ? いいの?」
「お父様にだって、外に子供がいますし」
「いやそうなんだけどそうじゃなくてさ」
わたくしを選んでいただけたこと、後悔させません。
何も求めていただけなくても、快適な生活のために頑張りますわ。
この結婚は、想像出来る範囲で一番幸せなものかもしれない、とベルタは小さく微笑んだ。