18.あの人の住む家は
長い指に涙を掬われると、微かに触れた体温が移ったように頬が熱くなった。
心配そうな優しい目で見つめられ、ベルタは逃げるように布団を鼻まで被って、小さな声で言った。
「わたくしも、マティアス様が大事です」
「うん……ゆっくりおやすみなさい。午後から外が少し騒がしくなるけど、心配しないで」
「? 何かあるのですか?」
マティアスはベルタの額を撫でながら、「静かに寝かせてあげられなくて悪いけれど、」と言い、
「老朽化した建物を、取り壊すことにした」
驚いてマティアスの顔を見上げる。
「それって、」
「ここに来た時に見ただろう? 中庭に隣接して建っている白い建物」
「えぇ……」
いいんだろうか。あそこには住んでいる人がいる。
でもそれは知らないことになっているし、迂闊に訊くことはできない。
寝込む前、最後にアーニャに会った時のことを思い出す。
燃えるような、挑むような瞳でベルタを見据えていたアーニャ。もうあそこにはいないのだろうか。
まさか。
まさか、この館の本館に住むことになった、なんてことはないだろうけど……じっとマティアスの深い色をした瞳を見つめたが、考えていることまでは読めない。
「急だが、取り壊す。……なぜそんなに驚く?」
「え、あぁ、その、白くてきれいなので、取り壊すほど老朽化してたなんて、とびっくりして」
マティアスは少し迷うような表情をしたが、「そうか」と続けた。
「中庭の薔薇が咲き乱れたら、美しい。特に、あの離れの周りに植えてあるのは白薔薇だから」
美しい薔薇に囲まれた美しい家の、美しい人。
全てがアーニャに誂えられているような素晴らしい場所。壊してしまって、よいのだろうか。
不安が胸を締める。
マティアスの表情は柔らかく、少し照れたように目を細めた。
「結婚式の舞台にどうかと」
「!」
「白薔薇に囲まれた銀の花嫁は、美しいだろうな」
ベルタの色のない髪をさらりと撫でて、びっくりした顔のベルタに気付き、マティアスは照れ隠しのように足早に部屋を出ていった。
病み上がりの身体が重くて追いかけることが出来ず、去る背中に伸ばした腕は布団の上にぱたりと落ちた。
「銀の、花嫁、って……」
「白薔薇の結婚式なんて、素敵です! お嬢様、素晴らしいドレスをご用意しましょうね!」
じわじわと胸に温かいものが広がる。
こんなに自分は単純な人間だったのかと驚くほど、花嫁と呼んでくれたことが嬉しくて、銀と表現してもらえたことが誇らしくて。
あの離れはなくなるんだ。それに上書きするかのように、結婚式の舞台が設営されるんだ。
アーニャのあの態度は、それを知っていたせいだったのだろうか。ベルタを憎んでいるだろうか。追い出すことになってしまった、のだろうか。
マティアスはああ言っていたが、それで良いのかどうかベルタには図りかねていた。自分の屋敷に、知らない人が住み着いているなんてことはまずありえない。やはり、マティアスはアーニャのことを知らないわけがない。
人が住んでいる場所を、そんなに簡単に壊せる?。
(本当に老朽化していたのかしら?)
(新しい建物だとは思わなかったけれど、壊すほどに朽ちていたわけではないわ。人が住めるくらいには、……)
アーニャはどこへ行ったのか。午後、動けるようだったら屋敷の中を見回ってみよう。空き部屋に、いるかもしれない。
会えたらなんて言おう。また、あの挑戦的な目で見られるのは少し怖い。アーニャからしてみれば、ベルタは愛する人と住むところを奪った女、ということになるのだろうか。
ずっとあそこに住んでいてくれても良かったのに、と思う。思うが、半分くらいは本心ではないことも気づいていた。自分の心の中でまでいい人ぶる必要はない。
愛人と仲良くできる、懐の深い女性もいることは知っている。そんなこと、ベルタにも可能だと思っていた。
自分に独占欲があるなんてこと、知らなかった。
マティアスに身体を心配され、大事だと言われ、花嫁と言われ。
嬉しくないわけがなかった。
アーニャを排除したいとまではとても言えないけれど、この気持ちを知ってしまった今、最初の頃のように無邪気に仲良くすることなど出来ない。
アーニャは、ベルタの友達では無い。