17.お見舞い
「熱は、まだ下がらないのか」
翌日の朝、マティアスはベルタの部屋にやってきた。
赤い顔をして眠っているベルタの頬にかかった髪をよけると、銀の長い睫毛が微かに揺れた。
「雨の中で泣いておられましたから……そんなに長い間濡れていたわけではないんですが、慣れない環境でお疲れだったのかもしれません」
リタの言葉に、マティアスの細いため息が聞こえた。
「――ゆっくり寝かしておいてやってくれ。必要なものがあれば持ってくるから、言ってほしい」
ありがとうございます、というリタの声に、マティアスが部屋を出る音。
霧がかかったように頭の中がぼんやりとしていた。
(泣いていたこと、マティアス様に伝えなくてもいいのに)
恥ずかしいな、と思う。けれど、今は声を出すのもおっくうで、もう一度目を閉じた。
身体中がきしむように痛い。
相当熱が高いのだろう、ベッドの中なのに寒くて仕方がない。
「お嬢様、マティアス様がお見舞いに来てくださったんですよ」
起こさないように、と気遣う小さな声。カタン、と音がして薄く目を開けると、小さなガラスの瓶にオレンジの薔薇のつぼみが活けられていた。
どうして、優しくするのだろう。仮にも婚約者だから?
堂々としていたアーニャの様子を思い出す。婚約者であるベルタに、「それが何?」と言い放ったあの女性の瞳には、強い光が宿っていた。情念が燃えているかのようだった。愛らしい見た目とは裏腹に、力に満ち溢れた女性。
でも、マティアスは見舞いに来てくれた。熱を出したベルタのため、家を空けることが多いと言いながらも昨日の夜も、そして今朝も。
優しくされたら、惹かれていく。
今まで地味で目立たない存在だったベルタに優しくしてくれたのは、家族と使用人だけだったのだから。侯爵家を取り巻く人々は、後継ぎである長兄や美しいフィオーネを誉めそやすばかりで、ベルタのことなど気付きもしなかったのだから。
好きになってしまったら、どうしたらいいのだろう。
好きになってもらうには、どうしたらいいのだろう。
考えたところで答えは出ず、熱に浮かされた意識はぷつりと途切れた。
◇ ◇ ◇
ふわりとおいしそうなスープのにおいがして、目を開けた。
「! ベルタ様!」
リタが駆け寄ってきて、ベルタの目を覗き込み、深く安堵の息をついた。
「よかったです……ずっと目を覚まされないからどうしようかと」
ふと見ると、サイドテーブルには大輪の薔薇。
「2日も寝たっきりだったんですよ」
そうか、それで。つぼみも咲くくらいの時間が経っていたようだ。
「枯れる前に目が覚めて、よかった」
「ほんとですよ! スープ、ありますよ。お腹空いてると思いますけど、いきなり食べると身体がびっくりしちゃいますからね」
うきうきしたように声を弾ませて、リタはスープをよそってくれた。大好きな緑のポタージュ。とてもいい匂い。
「ありがと」
「お礼なんていいから、早く元気になってください」
ゆっくりとスープを口に運ぶ。じんわり優しい味が広がって、まだ痛みの残っていた喉も癒えていくようだ。
すると、控えめに扉がノックされた。
どうぞ、と答えると、慌てた様子で扉が開いてマティアスが顔を覗かせた。
「ベルタ、起きたのか」
「はい。お、おみまいと……薔薇、ありがとうございました」
「――よかった」
心底ほっとしたように表情を緩め、マティアスはベッドの近くへ椅子を運び、座った。
穏やかな表情に、自然と肩の力が抜けていくのが分かった。
寝起きの顔をあまり見られたくなくて目を伏せる。
「まだ少し顔が赤いな」
「お熱は下がりきってはないみたいです。が、もう食欲はおありですよ」
「リタ!」
どうしてこの侍女は、恥ずかしいことばかり報告するのか。
慌てて制しようとしたが、マティアスはリタに笑いかけた。
「それはよかった。大事な花嫁に何かあったら困る」
「大事?」
思わず、聞き返してしまった。
マティアスは、驚いたようなベルタの返事にベルタの目を覗き込んだ。
問いかけるような視線から逃げるように視線を逸らして、「大事、ですか」と呟くと、彼は真摯な顔でゆっくり頷いてベルタの手を大きな掌で包んだ。
「もちろん」
ぽろ、と涙が出た。