16.悪意、雷鳴、悪夢と、
じっとベルタの目をまっすぐに見据えるアーニャから、ベルタも目が離せない。
「政略結婚でしょう? 貴族によくある、くだらない風習よね。愛し合ってもいない、初めて会った人と決められた結婚。身分、財産、親、世間体。本当にくだらない。そうは思わない?」
淡々と、責めるわけでもなく悲しむわけでも怒るわけでもない、温度のない声でアーニャは言う。
「私はそんなのは大嫌いなの」
と言う。
「くだらない」
と吐き捨てる。
「ベルタはどう思う? 幸せな幸せな、お花畑さん?」
と問う。
「わ、わたくしは……、」
ひゅ、と喉が鳴る。
「――帰ります」
何も答えることが出来なかった。
無感情なアーニャの目が怖くて、震えそうになる身体を励ましながら立ち上がり、ドアのほうへと後じさりする。
「そう? そうね、早いほうがいいわ。雷雨が来そうよ」
以前のアーニャのような優しい声で、そう言われた。がその表情は固く冷たい。
ベルタはこくこくと数回頷き、失礼しますとだけ呟いてドアを出た。
アーニャの視線が背中に絡みつくようで、ぞわりと肌が粟立つ。
転がるような勢いで階段を駆け下り、息が切れるのもかまわずに自室へ向かって走る。
雷雨の前の湿気を含んだ空気が、肺に重くのしかかる、息が苦しい。
「あっ、……」
中庭の石畳に躓いて、倒れた。うまく受け身が取れずに、肩を強く打った。じわじわと痛む肩を押さえて、その場にうずくまる。
「いたい……」
ぽろぽろ涙がこぼれるのは、痛いから。
しゃくりあげながら泣くなんてどのくらいぶりだろう。こんなに感情が抑えられないなんて、貴族の娘として恥ずかしい。
でも、止まらない。外だというのに、ベルタは座り込んだまま泣いた。
ぽつり、と雨が額に当たるのも感じたけれど、止められなかった。
わんわん泣いた。
ザーザー雨が降ってきた。身体が濡れるのもかまわず泣いた。涙と雨が混じって頬を流れるのを、ぬぐうこともしない。
「――ベルタ様!」
リタが来たのに気付いたけれど、傘を差し掛けてもらったけれど、それでも止まらなかった。
ふわふわのタオルで包み込まれるように抱き寄せられて、ベルタはリタに寄りかかるようにして立ち上がり、自室へとゆっくりと歩いた。
部屋に帰ると、ようやくベルタの嗚咽は止まった。
濡れた服は手早く脱がされ、着心地のいい部屋着を被された。濡れた髪はまとめられ、乾いたタオルで巻かれる。
温かい紅茶と焼き立てのクッキーが目の前に用意されて、熱い蒸しタオルで顔を覆われた。
「目が腫れます」
ありがとう、と伝えたかったが声が出ない。口を開くと泣き声しか出てこなさそうで、ベルタはこくりと頷くだけにした。
「転んだからって、そんなに泣かないんですよ」
ベルタの膝の傷を見て、リタは眉を顰める。目の前に跪き、自分の腿にベルタの足を乗せて、消毒液を遠慮なく振りかける。
「っ!」
「我慢ですよ」
こくり、とするとリタはふっと笑った。
「こんな子供みたいなベルタ様、久しぶりに見ましたわ。いつもは年齢より落ち着いているくらいなのに。傘を持っていかれたらよかったんですよ」
的外れな指摘に、ベルタはちょっとだけ笑った。
ほっとしたようなリタの顔を見ると、少し申し訳ない。
「心配かけて、ごめんなさい」
「びっくりしただけですよ、心配なんかしてません」
でも、とリタは続けた。
「たまには心配させてくれてもいいんですよ?」
リタの温かさが嬉しくて、じわりとまた涙がにじむ。
何も訊かないでくれる気遣いがありがたい。でも、訊いてくれたら答えられるのに、とか理不尽なことを考えてしまう自分も嫌いだ。
その夜、ベルタは熱を出した。
雨に打たれたからだろう、とリタはマティアスに伝えていた。
心配そうにベルタを見下ろすマティアスの視線を感じた。が、ベルタは眠ったふりをしていた。
話すことがたくさんありすぎると思った。
でもそのどれも、話すのがつらかった。
ひどく寒くて、身体が重くて、喉が痛かった。
嫌な夢を見た。
すごく嫌な夢を見た。何度も見た。飛び起きて、夢だと分かってもまだ震えた。
起きたら内容は覚えていないのに、怖くつらかった。悲しくてやるせなかった。
夢の中には助けは来ない。
でも、現実世界であったところで、助けなど来るのだろうか。